九州大学大学院法学研究院教授 嶋田 暁文(第3351号 令和8年3月2日)
南禅寺派管長をされていた勝平宗徹老師(1922~1983年)は、その著書『たくあん石の悟り―愚直に生きよ』(山手書房、1980年)の中で、次のようなことを述べておられる(同書71~74頁)。
「おいしい」ということの意味を、自分は作務を通じて知った。汗を流したあとの食事ほどおいしいものはない。考えてみれば当り前のこと。誰もが経験しているはずだ。山を登りきったあとの握り飯ほど、うまいものはない。たとえ粗食であっても、そのおいしさは、かけがえのないものだ。どんな一流レストランや料亭の料理も、汗を流して働いたあとの一個の握り飯にかなうものではない。つまり、美味とは、レストランや料亭の側にあるのではない。いただこうとする自分の側にあるのだ、と。
この話の意味するところを文脈に応じて敷衍すれば、いろいろな示唆を得ることができるように思われる。ここではそれを地域づくりの文脈で実践してみよう。
第1に、美味(=価値)は「自分たちの外側にある」のではなく、「自分たちの側に宿る」。言い換えれば、“地域の「外側」から企業誘致をするといった「外発的発展」ではなく、地域にある資源・人材・関係性・文化を基盤にした「内発的発展」こそが大事だ”ということになろう。
第2に、「汗を流すこと」こそがかけがえのないものをもたらす。これを地域づくりに引き寄せて読むなら、 “地元住民・移住者・関係人口が一緒になって汗をかくプロセスこそが地域に宿る価値をかけがえのないものに昇華させる”ということになろう。「プロセス重視の地域づくり」が大切なのである。
思うに、「外側」に美味を求める者は、その味が期待外れだったとき、「外側」を非難し、文句を言うばかりで、自身のありようを反省することはないであろう。地域づくりにおいても、従前、期待した結果が得られない場合に、その原因を「外側」(=国の施策の不備や東京一極集中など)にもっぱら求め、嘆くことに終始する傾向が少なからず見られてきたように思われる。しかし、美味(=価値)が「自分たちの側に宿る」のだとすれば、これまでの自分たちのありようを見つめ直すことこそが必要となる。
地域づくりとは、「外側」に答えを探す営みではなく、自分たちのありようを問い直す営みなのである。