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パートとエキスパート

印刷用ページを表示する 掲載日:2017年10月13日

法政大学名誉教授 岡崎 昌之(第3016号・平成29年10月9日)

大都市の暮らしをみていると、その生活空間はパートとエキスパートで構成されているのではないかと思うことがある。例えば全国で5万5千軒を超えたといわれるコンビニ。ちょっとした日用品の購入はもちろん、公共料金や税金の支払いもそこで済ますことができる。もはや都市生活には欠かせない存在だ。

コンビニのレジや商品の陳列などを行うのは、大半がパートタイムの従業員、いわゆるパートの皆さんだ。若い学生や日本語がままならない外国籍の人も見かける。この人たちが消費者と直接対応して、年間9千6百億円を売り上げる巨大システムだ。しかし商品開発や流通、資金調達、店舗立地など、その分野のエキスパートなしには、このシステムは維持できない。ところがこの仕組みにおけるパートとエキスパートの距離は遠く、分断されている。大都市の象徴的な一側面だ。

ひるがえって多くの町村の生活空間である農山漁村はどうか。農山漁村にもエキスパートがいる。山に分け入れば猪やキノコをとり、川に入ればウナギや鮎をとる。田んぼでは1粒から2千粒の米を収穫し、畑では様々な野菜を栽培する。ちょっとした家の修理は朝飯前、河川の改修や道路の補修までこなす。収穫された豊かな食材を、伝えられた技と腕で見事に加工し、食文化として伝える。神楽や祭りを伝承する。まさに生活の達人ともいえるエキスパートだ。

パートとはいえないが、このエキスパートたちの技を、若い人たちが順次受け継いできたのが日本の農山漁村だ。そこには後継者の若者とエキスパートの分断はなく、むしろ積極的に技や知恵を伝承してきた。

多くのものがパートで構成され、パートとエキスパートは分断され、エキスパートにはなかなかたどり着けないもどかしさと、社会の仕組みや人間関係が見えにくいのが大都市の生活だ。それに比べ、暮らしの全体像が見え易く、自身の存在が周囲から認められ、自己実現に近づける農山漁村の生活を選び取るという価値観が、20代、30 代の若者を農山漁村に回帰させているのであろう。

エキスパートの原義は何度も経験を重ねたということだ。日本の農山漁村を支えてきた暮らしのエキスパートたちはそろそろ80代になろうとしている。新規参入者が何度も経験を重ねていく時間は限られている。