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一歩踏み出す

印刷用ページを表示する 掲載日:2005年2月14日

エッセイスト 山本 兼太郎 (第2509号・平成17年2月14日)

卒業や就職の季節。どうしたらよいか悩んでいると、若い人が時々やってくる。

亡くなった作家の開高健さんが、どうしても書けなくなった。小説家が、小説を書けなくなっては、終わりである。大先輩の作家の井伏鱒二さんのところへ相談に行った。「先生どうしても書けないんです。どうしたらいいんでしょう。」井伏さんは「まぁ書くことだね」「それが書けないので相談にきたんです。」すると井伏さんは、にこにこしながら「それでも書くことですよ」という。なんべん聞いても「それでも書くことですよ」としか答えなかったという。とにかく、一歩を踏み出して、やってみないことには、すべてが始まらない。

上方落語の桂米朝さんが、若いころに話の数をふやして自分のものにしていった。年をとってから、その一つ一つを磨けばよいというのである。俳優の小沢昭一さんはかつて、この話を右から左へ聞き流していたが、年をとってくると、これそこ「芸」の基本であるばかりでなく、人生の貴重な教訓だと思うようになったと著書の中でいっている。桂米朝さんは、戦後の荒廃した上方落語を復興した人で、人間国宝と文化功労者の肩書きを持つ人である。

江戸時代の儒学者の佐藤一斎は、人の生き方を説いて、明治維新の人びとに大きな影響を与えた人である。「少にして学べば、すなわち壮にして為すことあり。壮にして学べば、すなわち老いて衰えず。老いて学べば、すなわち死して朽ちず」―はその言葉である。学ぶということは、生涯を通じての宝であろう。

社会参加の意欲もなく、努力もせず、ただぶらぶらしている若者が多くなっているという。

まず、やってみることである。井伏鱒二さんではないが、「それでもやるしかない」のである。高齢化の時代である。若いうちに、老いてから磨きをかける何かを持つ努力をすることである。

春は悩みのときであるが、勇気をもって新しく第一歩を踏み出すときでもある。