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雪の匂い

印刷用ページを表示する 掲載日:2002年1月21日

エッセイスト 山本 兼太郎 (第2384号・平成14年1月21日)

雪に匂いのあることを知ったのは少年のころである。暖かい布団の中で、ふと目が覚める。あたりはまだ真っ暗で、凛と張りつめた寒気の中に、一種の匂いのような気配を感じて、雨戸を開けてみると、雪が一面に降り積っていた。

香りの研究家の諸江辰男さんが、北陸の人らしく「雪の匂いで目が覚める」として「透明で鼻の奥をツーンと刺激するような匂いで、こんな朝はたいてい雪が積もっている」と著書でいっておられるのを後に読んで、やっぱりそうだったのか、と納得したものである。

雪の匂いで目覚めることが、いつのまにかなくなったある日、こんどは別の匂いが、ほのかに漂ってくることがあった。清楚な梅の香りである。自然は、いつのまにか春になっていたのだが、いずれも、なにも見えない暗闇の中での経験である。

人類がもっとも嗅覚が発達していたのは、4本の足で地上を動物のように歩き回っていたころだという。やがて立ち上って、2本の足で直立して歩くようになると、はるか遠くまで見ることができる。情報を得るために、視覚にたよることが多くなると、嗅覚が急速に衰えていった。立ち上って、あたりをきょろきょろ見てばかりいると、目には見えてこない大切なものを理解する能力も衰えてくるというのである。

知人に交通事故が原因で、匂いがほとんどなくなった人がいた。彼は視力のほうが普通の人よりも強いから大丈夫だと笑っていたが、病気でぽっくり死んでしまった。腐敗している食物のいやなにおいに気付かず食べたのが原因だった。目は達者だが、鼻がきかないことを忘れていたのである。

元首相の吉田茂さんは「外交感覚のない国民は凋落する」とよく言っておられた。そして「外交でもっとも大事なことは相手の立場にたって考えること、それと直感だ。犬と同じで、鼻のきかない者はだめだ」というのである。

こっちの方は鼻をきかすには、また特別な才が必要なようだ。