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手紙

印刷用ページを表示する 掲載日:2001年10月29日

エッセイスト 山本 兼太郎 (第2375号・平成13年10月29日)

はがきや手紙が苦手な旧友知人から、どういうわけか便りが届く。

「定年です。かねての念願どおり、愛用のショウチュウと文庫を道づれにして旅に出ています。充実した毎日。初秋の○○にて」

というのもあった。簡明な文章に、定年のさわやかな解放感があふれていた。

そういえば、近年、景気不景気に関係なく個人の手紙がふえている。この10年間に、18%前後も伸びていると関係者はいっている。

原因は携帯電話などのEメールにあるらしい。Eメールで単純なやりとりをしているうちに、それだけでは十分意をつくせない。そこで、より複雑なコミュニケーションを求めて手紙を書くようになる。簡単なものはEメールで、より複雑なものは手紙でと使い分けが広まっているのではないかというのである。新しい手紙の時代がきているのかもしれない。

複雑なことを簡単にした名人がいる。明治の作家の斎藤緑雨である。風刺のきいた評論でも知られていたが、文筆だけの生活はやはり苦しい。「筆は1本なり箸は2本なり。衆寡敵(しゅうかてき)せず」と、その貧乏を嘆いたのはよく知られている。

その緑雨から東京帝国大学教授の上田万年のところへ手紙が届いた。巻紙の初めに「拝啓」とあり、あとはなにも書かずに白紙、ただ「草々」とあるだけである。Eメールどころではない。国語学者でもある上田万年先生は、この不思議な手紙をしばらく見つめていたが、やがてくすくすと笑いながら「わかった」といったという。

手紙の意味するところは、文章にするのも恥ずかしい。とにかく意のあるところを察してほしい―はやくいえば「お金をつごうしてほしい」というものだった。いいたいことを一言もいわずに相手に理解させる。相手もまたその諧謔を理解して面白がる。新しい手紙の時代といっても、こうはいくかどうか。

単純な形式に複雑な内容を盛るほど難しいものはない。