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ままごと遊び

印刷用ページを表示する 掲載日:2001年4月16日

エッセイスト 山本 兼太郎 (第2353号・平成13年4月16日)

春になると、室生犀星の詩の一部を懐しく思い出す。

『うつくしきみ寺なり み寺にさくらりょうらんたれば うぐいすしたたり さくら樹にすずめら交わり(中略)おとめらひそやかに ちちははのなすことをして遊ぶなり』

かつては、寺院の境内に梅や桜などを植えてあるのを、よく見かけたものである。観光や駐車場になってしまった昨今とは違って、ひっそりとした境内には満開の桜が、静かに散っている。その下で、子供たちは「ちちははのなすことをして遊ぶなり」つまり、「ままごと遊び」に興じている。昔の日本ののどかな美しい春を切り取ったような見事な抒情詩である。

近年、このような子供たちの「ままごと遊び」が、ほとんどなくなった。家庭と子供の関係を考えると、深刻だという専門家の嘆きを聞いた。

母親には、すべてを愛情で包み込む優しさがあった。父親には子供が社会の一員として立派に育つように、社会のルール・しつけをしっかりと教えるという、家父長としての厳しさ、強さがあった。ところが、家父長としての厳しさがしだいに薄れてしまう。すると母親の方は「勉強は」「しっかりしなさい」となにかと口やかましくなってくる。愛情と厳しさのバランスが崩れて、子供たちは、ただいらいらするばかりだというのである。

たまたま「ままごと遊び」をすることがあっても、花形だったお母さん役やお父さん役は、すっかり人気がなくなって希望者がいない。ただ「ペット役」だけは人気があるそうだ。愛情たっぷりの母親役でもなければ、厳しく威厳のある父親役でもない。ただ可愛がられるだけの「ペット役」ばかりをしたがる風潮を心配するむきもある。

やはり、桜の散る下で「ちちははのなすことをして遊ぶなり」の詩が懐しく思い出されてならない。