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「ゆとり」

印刷用ページを表示する 掲載日:2000年10月30日

エッセイスト 山本 兼太郎 (第2334号・平成12年10月30日)

10月には早くも新年の手帖や暦が店頭に並び、11月になるともう「年賀はがき」の売出しである。ゆっくりと秋の風情を楽しむどころか、気忙しさだけが駆け抜けていく。携帯電話は便利なもので、当然のことだが、歩きながらでも遠くに意を通じることができる。そして、家に帰るとファックスが入っているし、留守番電話も待ちかまえている。そのうえ、インターネットである。

考えてみれば、これらは通信連絡の時間のロスをできるだけ短くして、便利にしようというものである。それでは、さぞかし時間の「ゆとり」ができたかと思うと、さにあらず。スピードアップされた分だけ、いやそれ以上に生活のテンポが早くなって、便利さに振り回されることになってしまった。

若いうちは、そうしたテンポの早さも、快い緊張感となって、面白いように仕事が進み、生活も楽しい。ところが、そろそろ身体に陰りがみえはじめると、生理的にもついていけなくなる。2泊3日の出張旅行が、航空機の発達で、いきなり日帰りになったようなもので、疲れ果てて「ゆとり」どころではない。

どこの国も同じとみえて、フランスでは「人材養成セミナー」のプログラムに、「ゆとりの講座」を取り入れたところ、申込みが20%もふえたという。「ものごとの優劣の順位がつけられるようになった」という受講者が、もっとも多かったそうだ。平たくいえば、仕事の段取りが上手にできるようになったということである。プロ野球阪神の野村監督が、かつて財界人の集まりでの講演で、「できる男とはいかなる男のことか」と質問されて、「段取りのつけられる男だ」と答えていた。「ゆとり」は段取りのよさから生まれるのであろう。

1年も終りに近づいた。便利な機器に追いまくられて、人間同士の素朴なコミュニケーションである年賀状を書く暇もないということにならぬよう、まずはものごとの優劣の順位――段取りを考えねば、と思ってみたりするのだが……。