ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > コラム・論説 > 三種類の日記

三種類の日記

印刷用ページを表示する 掲載日:2000年6月12日

エッセイスト 山本 兼太郎 (第2318号・平成12年6月12日)

長年、公務にたずさわっていた人が、先般なくなられた。この人、戦中戦後の50数年間にわたって、3種類の日記をつけている、と言っておられたのを思い出した。その継続の努力に驚いたが、それよりも「3種類」ということに興味があった。

日本人には古くから日記の好きな人が多い。太平洋戦争中、あの苛酷な戦場でさえも、几帳面に日記をつけている兵士は少なくなかったという。アメリカ軍は、このような戦場に残された従軍手帳の日記―― 記録と感想を重視した。輸送船の被害や沈没の状況、武器・食糧の欠乏、戦況の見通しなど、表向きの発表とは違った、本当の姿を知ることができたからである。

ところで、さきの「3種類の日記」のことである。1つは仕事の日記であり、もう1つは家庭をはじめ個人的なもの。3つめは金銭の出入りについてのものだった。これが、それぞれ別の日記帳に書かれてあって、全部あわせると、百数十冊にもなるという膨大なものである。

これは50数年間にわたって、公と私と金銭についての記録と感想を書き綴ったことになる。そこで、以前に書いたものを、読み返すようなことはありますか、と聞いたところ、「一度もない」と苦笑しておられた。ではなぜ、読み返すことのない日記――記録と感想を、毎日書きつづけるのか、とさらに聞くと、ちょっと間をおいてから「それは毎日の反省だよ」と、真剣な顔つきでいわれたのが印象的だったのを覚えている。

「日記は、そこにもう一人の自分をつくることだ」という名言がある。もう一人の自分とは、ごまかしのない「本当の自分」である。「3種類の日記」を毎日書くことは、この人にとって、本当の自分を見詰めるための反省と確認の行為だったのであろう。昨今、公と私の区別もつかぬ奇怪な不祥事が相次いでいる。公・私・金銭の日記をつけることで、反省と確認の機会ともなれば、かなり違ったものになることだろう。