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規範

印刷用ページを表示する 掲載日:1999年11月8日

エッセイスト 山本 兼太郎 (第2293号・平成11年11月8日)

教室での私語、携帯電話の信号音等々、学生たちの行儀の悪さ、非常識には困ったものだと、大学で教えている知人が嘆いていた。当然してはいけないこと、しなければならないことの区別がつかないらしい。社会の共通の規範がなくなると、世の中がどうなるかの見本のようなものだというのである。

夏目漱石が東京帝大で教えていたころ、和服でいつも片手をふところに入れている学生がいた。教室で講義をきくのに、ふところ手はいかにも失礼である。漱石先生たまりかねて「ふところ手をやめたらどうか」と注意した。

明治のころの教室は、このように厳しかった。学生は顔を赤らめて、申し訳なさそうだったが、やがて意を決したようにいった。「実は、私は片腕がないんです。子供のころにけがをして…」

他人の身体上の欠陥を、大勢の人の前であらわにするようなことはなすべきではない。今度は漱石先生の方が、顔を赤らめて、ぐあいのわるそうに口をもぐもぐさせていた。

学生の方は、不幸にして片腕がないとはいえ、不作法と先生に思わせて、たいへん申し訳ないとの思いがあったろう。漱石先生の方もまた、悪いことをいってしまった、という思いもあったろう。つまり共通の規範が、信頼関係となって、教室全体を空気のように包んでいたに違いない。

そこで漱石先生は、にやりと笑って言ったそうだ。

「僕だって、ない知恵をしぼって講義をしている。君もたまには、ない腕を出してみたらどうかね」

この当意即妙のユーモラスな一言で、ぎこちない雰囲気になっていた教室に、暖かい春風のようなものがよみがえったというのである。こうした情況の中で、ユーモアとして迎えられるには、やはり互い信頼関係があってのことである。

社会にどのような規範があるかわからなくなると、信頼関係もなくなり、子供をどう叱ってよいかわからなくなる―――は山本七平さんの言である。