エッセイスト・画家 玉村 豊男 (第2584号・平成19年1月8日)
教育問題がクローズアップされている。いじめ、自殺、不登校。おとなたちの偽善と欺瞞。問題はどこから生じてきたのか、どうして捻じ曲がってきたのか、根は深いが、地方の子弟を都会に送り込んで同質的な企業社会を築いてきた戦後日本の経済発展の構造が、そのまま学校の中にもちこまれ、大学受験をめざす学業成績による差別構造、あるいはいじめという名の同質性からの排除構造を生んでいる、と見ることもできる。
私は、地方の中学や高校では、いまこそ「下放」をおこなうべきではないかと考えている。毛沢東が文化大革命で提唱した「下放」は政治的な権力闘争の所産としていまでは否定的に評価されているが、情報と消費しか知らない非現実的な生活者を、一次産業の現場に放り込んで現実と生産に直面させるというアイデア自体は、いまの日本で有効に機能するかもしれない。
都会の大人や子供を地方に送り込むのは大変な事業だが、まずは地方の学校で学ぶ生徒たちに、机の上の勉強だけでなく、畑仕事をさせたり、牛や山羊を世話させたり、森で木を切ったり薪を拾わせたり、あるいは漁村なら漁の仕事を手伝わせたりすることなら簡単にできるだろう。要するに、その地域の住民たちが暮らしのために受け継いできた仕事を、授業の重要な部分として、恒常的なカリキュラムの中でやらせればよいのである。そうして体力をつけ、他人との協調を学び、生活のための知恵と技術を身につけさせる。
現代の哀れな子供たちは、疲れ切ったおとなたちのコピーである。日本のように豊かになった国の町や村でも、明日のために必死に生き抜こうとしている発展途上の国や地域の子供たちの目に宿る輝きを取り戻すことができる、ということを、それぞれの地域にまだ残っている逞しい生活者の協力を得て、示すことはできないだろうか。