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駅弁の世界から考える

印刷用ページを表示する 掲載日:2004年9月13日

エッセイスト・画家 玉村 豊男 (第2493号・平成16年9月13日)

私は東京に出かけるときは上田から新幹線に乗る。所要時間約1時間20分。本当に早く、便利になったものだと思うが、ときどき碓氷峠をのんびりと越えていた昔が懐しくなることもある。とくに、「峠の釜めし」で有名だった横川駅の風景が見られなくなったのは淋しい。

デパートの駅弁祭りには行列ができ、駅の売店で売られる駅弁も多様化し高級化しているが、その一方で全国の駅から駅弁売りが姿を消し、地元の小さな店による手づくりの駅弁も減少の一途をたどっている。

ある雑誌で鉄道に詳しい識者が、駅売り弁当業界ではJRの系列会社が民業を圧迫している、と指摘していた。どの駅でも乗り換えの階段に近い一等地に売店を構えているのはJR系の店で、昔から営業していた地元の零細な弁当屋さんはホームの隅のほうに追いやられている、というのである。そのために廃業に追い込まれた店も多く、その結果乗客は、系列メーカーのセントラルキッチンでつくられた、個性的なように見えて実は画一的な駅弁を食べることを余儀なくされている……。

なるほど、そう指摘されるといくつかの駅の風景が思い浮かぶ。そして、民営化したとはいえ寡占的に強力な公社系の大会社が、零細な民業を圧迫し排除しようとする傾向があるのは鉄道の世界だけにとどまらないことに思い至る。

民間の活力を利用する。民にできることは民にまかせる。そういいながら、たとえば市町村の単位でも、規制を楯にとって民間の営業努力に水を差す判断を自治体が下したり、民と民との競争の中に強力なバックを持つ民を装った官の組織が割り込んだりはしていないだろうか。

町村における民の活用のありかたは、地域の将来を左右する重要な問題である。