読売新聞東京本社論説委員・コラム『編集手帳』執筆者 竹内 政明
(第2895号・平成26年10月6日)
肉親の目は、ときに批評家よりも辛辣である。「父はどの結婚式でも花嫁になりたがる人でした」。米国の第26代大統領、セオドア・ルーズベルトを語った長女の言葉である。 いつでもどこでも主役でいなければ気が済まなかった、と。
大統領に限ったことでもない。洋の東西、時の古今を問わず、「目立ってナンボ」の精神は政治家と切っても切れない関係にあるのだろう。
その先入観に照らすとき、JR東京駅の銅板は異例である。東海道新幹線のホームを下りた陰に掲げられている。1964年(昭和39年)10月1日の開業時に設置された。
〈東海道新幹線 この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された〉
あとは運行距離と起工・営業開始の年月日が淡々と記されている。普通であれば「われこそは主役なり」とばかりに、総理大臣か運輸大臣か、 あるいは国鉄総裁の名前が麗々しく刻まれるところだろう。銅板に個人名はない。
その9日後には東京オリンピックが幕を開けている。敗戦の焼土から立ち上がった姿を高らかに歌い上げた祭典だが、先進国の仲間入りをするべく国を挙げて爪先立ち、 背伸びをしていた面も否定できない。出稼ぎの働き手が100万人を超え、「半年後家」なる言葉が生まれた同じ年である。 国立競技場の開会式を見て「貧乏人が帝国ホテルで結婚式を挙げたような」と述べたのは作家の獅子文六だが、当時の日本がまだまだ貧しかったことをご記憶の方は多いはずである。
不足だらけ、不安だらけの暮らしに耐えながら世紀の祭典を縁の下で支える無名の国民一人ひとりに、ときの閣僚は銅板の「主役」を譲ったのだろう。
もの持たずすずやかに飢ゑてありし日の 鋭心いかに保ちゆくべき(島田修二)
結婚式の花嫁になりたがらぬ政治家がいて、涼やかに飢えた国民がいた。そんな昔を日本人として誇りに思う。