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虫ピン

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年4月7日

読売新聞東京本社論説委員・コラム『編集手帳』執筆者 竹内 政明
(第2875号・平成26年4月7日)

作家の北杜夫さんは昆虫少年だったという。標本は珍種を含めて100箱以上あった。中学生のとき、自宅が空襲で焼ける。北さんは標本を炎のなかに残し、 虫ピンの小箱を後生大事に抱いて避難している。標本は灰になった。

「自然も昆虫もふんだんにあった当時は、虫ピンがこの上なく貴重なものに思えた」と、後年の回想にある。

東京の日本橋界隈を歩くたびに、北さんの思い出話が胸をかすめる。

川には典雅な装飾の橋が架かっているが、高速道路のコンクリートに頭上を覆われた姿は痛ましい。〈高速道路跨またがりて暗くなりはてし日本橋わたるいきどほろしく〉(五島茂)。 1964年(昭和39年)の東京オリンピックを成功させるべく、国じゅうが突貫工事の作業場になった時代の遺跡である。

川の上に道路を通せば、面倒な用地取得は要らなくなる。どこかの利口者が知恵を出したのだろう。効率一辺倒の浅知恵を後世の目で笑うのは容易だが、そう割り切れた話でもない。

北さんの虫ピンである。ばかだ、愚かだと、あとで笑われようとも、悔いようとも、その時点ではどうしようもない選択がときにある。当時の日本人には、 国際社会から一人前と認めてもらうことが何よりも貴重だった。敗戦の傷は、それほど深かったに違いない。

コンクリートの屋根を取り払い、青い空の下を歩きたいと思うときがある。いや、いまの姿のまま、人間の愚かさを後世に伝える遺跡にしたい。そう思うときもある。 東京オリンピックから満50年の今年、その橋は訪れる現代人の胸を虫ピンとなってチクリと刺すことだろう。

日本橋から銀座に足を向けると、ほどなくして数寄屋橋に出る。やはり高度成長の頃に埋め立てられて、川は流れていない。水面の記憶を地名に残し、橋は消えた。 かつて橋のあったあたりは小さな公園になっている。〈数寄屋橋此処にありき〉。劇作家菊田一夫の筆になる碑文は、どこか墓標を思わせる。