読売新聞東京本社論説委員・コラム『編集手帳』執筆者 竹内 政明
(第2835号・平成25年4月1日)
料理に「面取り」という工程がある。野菜が煮崩れしないよう、切ったカドを薄くそぎ取ることをいう。
野菜に限るまい。組織のなかで、ときに人間も煮崩れする。新聞社に勤務した経験をお持ちの歌人、松村由利子さんに煮崩れの歌があった。
大きなる鍋の一つか会社とは煮崩れぬよう背筋を伸ばす
入社したときには胸に抱いていたはずの夢や、自分ならではの個性が、会社組織の大鍋にグツグツ煮られているうちにいつしか溶けだし、形をなくしていく。 歌われている「煮崩れ」とはそういうことだろう。
わざとカドを丸くすることで、カドを保護する。料理の「面取り」には、処世に転用できる知恵も含まれているようである。さあ、これが俺の個性だ、文句があるか…と 肩ひじを張っていては、かえって煮崩れてしまう。自分というものをほどほどに殺すことで、自分らしさの命脈を保つ。人間の場合は野菜以上に、包丁さばきがむずかしい。
若い人が社会に巣立つ春である。「団塊の世代」が大量に退職したあとを引き受け、いずれは鍋奉行として伝統の風味を受け継ぎもし、一新もする人たちだろう。ともあれ、 いい味に、と祈る。
鍋の中で背筋を伸ばしつづけるのも、それはそれで疲れるものである。勤め人の生態を詠んだ歌では、岡野弘彦さんの一首も胸にしみて忘れがたい。
人はみな悲しみの器。頭を垂りて心ただよふ夜の電車に
わが経験に照らせば、社会に出て知り合う人間の3人に1人は嫌なヤツだし、降りかかる出来事の2つに1つは理不尽である。愚痴をサカナに赤ちょうちんの苦い酒を飲み、 「バカヤロ…」とつぶやいては終電のつり革にすがって眠る。ときには、そういう夜もあるだろう。