読売新聞東京本社論説委員・コラム『編集手帳』執筆者 竹内 政明
(第2823号・平成24年12月17日)
何年か前の冬、電車を乗り過ごしたことがある。べつに居眠りをしていたのではない。乗り合わせた姉妹らしき子供たちが遊ぶのを、見るともなしに見ていたときである。
息でくもる窓に、指で丸や三角を描いた。と、すぐに手袋の手でぬぐい、また息を吹きかけて今度は自分たちの名前だろう、なにか文字を書いている。
空気には目に見えない水の粒が浮かんでいます。暖かい空気に冷たいものが触れると、目に見えない水の粒は目に見えるしずくに変わります。そとに 北風が吹く寒い朝、お部屋のなかから窓に息を吹きかけてごらんなさい…。
何十年も昔にお世話になった恩師の声が不意によみがえり、小学校で理科の時間に教わった結露の仕組みを思い出したのは、少女たちが小さな靴裏をこちらに向けて 顔を寄せ合った夜の車窓に、学校の黒板を連想したせいだろう。
暖かいものと冷たいものが触れ合って水滴ができる。はて、なにかに似ているな。物思いにふけっているうちに、降りる駅を通り過ぎてしまった。乗り過ごした 甲斐あって、何に似ているか気がついた。涙――である。
からたちのそばで泣いたよ。
みんなみんなやさしかったよ。
童謡『からたちの花』(作詞・北原白秋、作曲・山田耕作)の一節にある。ひとの優しい気遣いや、ちょっとしたしぐさに触れて、凍えた心をもつ人の目に露が 結ばれる作用は、誰もが経験で知っている。
あるときは誰かの目に露を結ぶ吐息になり、あるときは誰かの吐息をもらって冷たく乾いたわが目を潤し、誰かを暖めたり、誰かに暖められたりしながら、 人は生きているのだろう。
なにか気の利いた、教訓めいた結語を用意して書き始めた文章ではない。憂き世の冬もそう捨てたものではないと、ふと、そんなことを考えるだけである。