読売新聞東京本社論説委員・コラム『編集手帳』執筆者 竹内 政明
(第2773号・平成23年9月12日)
「NHKのアナウンサーの言葉で恋をささやかれたくない」。20年ほど前、NHKラジオで放送された日本語をテーマにした座談会で、言語学者の柴田武さんはそう語った。同席していた詩人の川崎洋さんが自著『感じる日本語』(思潮社)で回想している。
川崎さんも同感だという。「あなたを愛しています」と言われるよりは、その人が九州の女性ならば「ああたば好いとる」と言われたほうがズシンと胸にこたえるだろう、と書いている。〈方言には感情を素手で相手の心に届ける力があると思う〉と。
方言が素手だとすれば、標準語は薄手の手袋、表情や肉声の伝わらないパソコンや携帯のメールは厚手の手袋かも知れない。〈メールの中の(笑)/あんたは本当に笑ってる?/俺は本当に笑ったことがない〉(中央経済社『日本一短い手紙 喜怒哀楽』より)。便利で、さびしい時代を人は生きている。
冒頭で触れた川崎さんの著書には、いくつかの胸にしみる方言が紹介されている。そのなかの一つに、「きしみずよせる」があった。岸水寄せる。
幼い子供に何か悔しいことがあって、目にいっぱいの涙がいまにもこぼれそうな様子を、川や湖の水が岸に寄せる風情にたとえた岩手の古い言い回しという。その昔、おじいさんやおぱあさんが泣きべそをかいた孫の頭を優しくなでてやりながら、「おお、岸水が寄せよるぞ」と目を細めた表情が浮かんでくる。〈メールの中の(笑)〉の対極に違いない。
顧みればあの震災以降、肉親を津波に奪われた被災者の、内臓から絞り出すような東北ことばの慟哭をいったい幾度、テレビやラジオで聴いただろう。厚い手袋をはめて互いの気持ちを伝え合うことに慣れた現代人は、〈感情を素手で相手の心に届ける力〉をもっとも悲しい形で思い起こしたはずである。
被災地を遠く見つめるあの町、この村の茶の間で、どれほど多くの人々の目にもらい涙の「岸水」が寄せたことか。