農村工学研究所研究員 坂本 誠 (第2728号・平成22年7月26日)
「過疎」という言葉をできるだけ使わないようにしている。「過疎法」など政治用語として使うことはあるが、それ以外の場面では極力用いない。それは、用語としてはあまりに定義が曖昧だからである。「疎に過ぎたる」「密に過ぎたる」というからには、なにかしらの基準があって、それを超えるから「過疎」「過密」というのだろうが、その基準が明確でない。たとえば人口密度を指標とするならば、平方キロあたり何人を下回れば「過疎」なのか。そもそも人口密度を指標とする自体、適当なのか。感覚的な基準で地域を測定するのは、時に地域の実状を見誤る一因となる。
たとえば、人口密度でなく、住民どうしのネットワークを基準に据えれば、違った様相が見えてくる。都会は、人口密度でいえばたしかに「密」であるが、「隣は何をする人ぞ」といわれるように、住民どうしのネットワークはどちらかといえば「疎」である。住民どうしのネットワークでいえば、農山村の方がはるかに「密」であり、農山村への移住者からは密度が高すぎるという不満すら聞こえるぐらいである。彼らにとって、農山村は「過密」なのだろう。
とはいえ、農山村を歩いていると、農山村のネットワークも次第に「疎」になりつつあると感じる。要因の1つは、集落の寄合や祭りの減少である。集落総出で行われる祭りは、集落内の人間関係を培う場であり、特に祭りの主役となることの多い次世代に地域を継承するプロセスでもある。寄合は、地域運営のノウハウを蓄積し、新たな課題に対応していく場であり、集落の意見をとりまとめて地域外に伝えていく、住民と地域外の結節点でもある。このような集落内外の人々をつなぐネットワークの土台である祭りや寄合の減少は、農山村社会のネットワークを確実に「疎」にしていく。
ネットワークは、新たなものを受け止める「網」でもある。ネットワークが脆く、粗くなると、新しい物を受け入れて我が物にすることもできなければ、新たな課題を受け止めて解決に動くこともままならない。人口の減少がすなわち「過疎」ではない。大事なのは、たとえ人口が減少しても、ネットワークを「過疎」にしないこと。目の細かく、強靱で、かつ弾力性のある網を地域の中に張っていくことではないだろうか。