農村工学研究所研究員 坂本 誠 (第2667号・平成21年2月2日)
昨年6月、宮崎県町村会のご協力により、県山間部の町村長を訪ね歩く機会があった。
各町村長に共通していたこと。それは、陳腐な表現ではあるが、各町村長の、地域を思う熱い心である。地域を愛し、地域をどうにかしたいという思いが、言葉の端々から、それを発する表情から、時にほとばしるように溢れ、時には静かに染み出していた。これを一言で見事に言い切ったのが、西米良村の黒木村長がしきりにおっしゃっていた「魂」という言葉であろう。
最近、事務処理を効率的にこなす市町村こそ「自治体の鏡」だとする言説が蔓延っている。しかし、いくら事務処理を効率よくこなすことができようが、そこに地域をどうにかしたいという思い―「魂」がこめられていなければ、それを「“自治”体」と呼べようか。そこに横たわるのは「魂」の抜け殻としての「事務処理組織体」にすぎないのではないか。
ある首長が、雑談の中でふと漏らした言葉が印象に残っている。
「朝、目が覚めて、少しでも弱音が口をつくようになったら、ただちに首長を辞す覚悟です。そんな気持ちで、毎日務めています」。
今回訪れた町村は、いずれも険しい九州山地のただ中、山襞に沿うように静かに佇んでいる。大都市の生き馬の目を抜くような目まぐるしい社会からすると、「眠っている」ようにも見えるだろう。しかし、そこには、地域をどうにかしたいという「魂」を燃焼させ、具現化していくリーダーがいて、住民と共鳴しながら、正なる「自治」を実践している。たしかに、そこには自治が息づき、「“生きた存在”としての自治体」がある。
人口数や隣接関係をもとに「合併パターン」なるものが検討された時期があった。人口の少なさや財政的困窮を理由に合併が推進された時期があった―いや、現在も続いているといえるかもしれない。であればこそ、いま、声を大にして言わねばならないのではないか。
市町村は、ジグソーパズルのピースではない。そこには「魂」があり、「自治が”生きている”」のだということを。