ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > コラム・論説 > 漁村と津波防災

漁村と津波防災

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年4月25日

東京大学名誉教授  大森 彌(第2958号・平成28年4月25日)

農村漁村というように一括して呼ぶことがあるが、もちろん、山村、農村、漁村の成り立ちも生活条件も異なっている。これらの地域に所在する自治体としての町村も、それぞれに施策に工夫をこらしている。町村の存立とその自治を護ることに関心を持ってきた筆者は、論考や講演などでは、どちらかといえば農山村への言及が多く、漁村のことを忘れがちであった。東日本大震災は、その反省の機会となった。

NHK BSプレミアムの教養番組「英雄たちの選択」は、2016年3月10日、40年もの歳月をかけて普代水門・太田名部防潮堤を建設した和村幸得元普代村長の「偉業」を取り上げた。人口約2、900人の三陸海岸沿いの普代村は、3・11の大津波でも一人の死者も出さなかった。この事例は海外でも評価高く報道された。

東日本大震災では高さ10mの大型防潮堤をはじめ各地の水防施設が越水・破損により機能不全に陥った。それゆえ、復旧・復興のためには、より高い防潮堤を建設すればよいと考えがちになろう。しかし、普代村の場合でも、高さ15.5m、延長155mの太田名部防潮堤は細長く入り込んだ地形の谷間をつないでいて集落から海は望めず、また高さ15.5m、幅205mのコンクリート製の普代水門はその内側の集落を守ったが、海・海岸と集落との密接な関係は希薄になっているという感じは否めない。

かつて各地の漁村を訪れた時の記憶をたぐり寄せれば、多くの漁村は、家々がびっしりと建て詰まっていて、狭い路地は通路であると同時に住民の生活が交差する付き合いの場にもなっている。路地は必ず漁港に通じ、漁港は人びとの交流・イベントの場所となっている。漁村とは海と漁業と集落が一体化している生活の場ではないか。被災漁村の復興は、これをどう取り戻せるか、あるいは再生させることができるかが基本的な課題ではないか。

防潮堤が海と集落との間のバッファであるとすれば、集落と海を遮断するコンクリートで防潮堤を造らなくてもよいかもしれない。「いのちを守る森の防潮堤プロジェクト」もある。浸水地域に盛り土をして、そこへポット苗を多種多様に混植、密植する。地中深く根を張った森が緑の壁になり、波砕効果によって津波の力を弱め、引き潮による被害も軽減できるという。この方策でも海と共に生きる漁村の再生に役立つように思うが、どうであろうか。