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覚悟と責任を問われる首長職

印刷用ページを表示する 掲載日:2004年10月4日

千葉大学教授・東京大学名誉教授  大森 彌 (第2495号・平成16年10月4日)

基礎自治体の仕事は様々だが、首長としては、多くの仕事は信頼できる職員ならば任せておける。かりに一週間旅に出たとしても、その間一回も役場に電話しなくてもきちんと仕事を運ぶように日ごろから職員を育てておけばよい。しかし、従来の考え方や事の運び方では、もはや立ち行かないような危機が発生すれば、首長がリーダーシップ発揮しなければならない。いまの時節と情勢は、そのリーダーシップを求めている。

リーダーとしての首長には三つの能力の有無が問われるといえる。

第一は、他の人よりも少し早く、人々の悩みや困難や願望を見抜き、それを具体的な言葉・表情・動作で表すことができる能力であり、「表現の能力」であ。第二に、自治体は日々意思決定をしなければならないが、大小の意思決定を的確にタイミングをはずさずにできなければならない。「決定の能力」である。第三に、自治体として、あることをやるかやらないか、どの程度までどういうようにやるのかには理由が必要であり、それを説得的に説明できなければならない。政治学の言葉では、これを「正統化の能力」と呼んでいる。市町村合併の是非をめぐる首長の対応などは、こうした能力が最も問われるケースである。

これら三つの能力を一人の首長がすべて兼ね備えていなければならないというのは少し期待し過ぎかもしれない。不十分な部分は幹部職員が補えばよい。そうした職員がいないというのであれば、それは人材育成の点で首長の不徳か怠慢ということになる。

歳入の縮小が続き、職員定員の適正化を進めているときに自ら報酬をカットせずに平然としている首長は少ないだろうが、時節柄、首長職はそう割に合う職ではなくなっている。危機に直面してリーダーシップを発揮しても必ず高い評価を得られるとは限らない。職員にも住民にも不人気な決定をしなければならないことも少なくない。それでも、世のため、地域のために、身を削ってまで、自治体の経営をやり抜かなければならない。こんな覚悟と責任を問われる首長職になろうとする人は奇特である。