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都市人間を笑い飛ばす

印刷用ページを表示する 掲載日:2000年11月20日

千葉大学教授・東京大学名誉教授 大森 彌 (第2337号・平成12年11月20日)

都市は、管理・統制が大好きな人間の脳が造り出した人工物である。その究極は、地下街のような自然の排除である。しかし、人間から自然を排除することはできない。それは文字通り空気や水を不可欠にしているという事実だけをいっているのではない。自然は人体内にあり、そこで繰り広げられている生と死があるからである。人体内の死の中で驚異なのは自殺死(アポトーシス)である。それは新芽のための落葉とそっくりである。そして、おびただしい細胞の死は、おびただしい細胞の誕生によって置き換えられる。しかも、人体内には、これまたおびただしい微生物が、宿主と仲良く共存しつつ、それ自身の生と死を営んでいる。何千、何万年の間に築かれてきた、この関係は自然界の共生と同じ仕組みである。

都市人間の弱点は、自然の摂理として、人間には必ず個体死が訪れることを知りつつ、それから眼をそむけ、内なる自然を排除できないのに、都市という人工物の快適と便利の中で、それが排除できるが如く、知らん顔をして暮らしていることである。そのような都市人間に未来があるはずはない。

それに比べれば、自然の中で、自然と共に生きている中山間地の人々のほうが、ずっと、人間の思うようにならない自然を畏れつつ自然の恵みに感謝する心を忘れないですむ。都市が肥大してから中山間地の価値は低く見られてきたが、本来、未来のない都市のおごりが続くはずはない。21世紀は中山間地の時代になる。そこの人々こそ都市人間の生死を握っている。そういう予感がする。法律がそう命名して負のイメージを背負わされた過疎地の町村が、ひたすら国などに財政支援を求めて頭を下げ続けることをなんとかやめられないであろうか。人工物に囲まれて安心している都市人間を笑い飛ばす思想を獲得できないであろうか。農山村が滅んだら都市は滅びるが、都市が滅んでも農山村は滅びないと。