法政大学教授 岡崎 昌之 (第2416号・平成14年10月28日)
350年前の衝撃的な出来事が、地域の住民たちによって、我が事のようにいまも語り継がれ、関連行事も面々と続いている。その出来事とは、慶安5年(1652)、現福井県上中町、日笠川原での若き庄屋、松木(まつのき)庄左衛門の処刑である。
慶長6年(1601)、若狭の領主になった京極高次は、小浜湾を望む高台に城を築くこととした。工事は難渋し、領民は労役に苦む。年貢の大豆も1俵4斗から5斗入りに増徴される。京極氏に替わって藩主となったのは、徳川家光に仕えて大老にまでなった酒井忠勝。ただ忠勝も小浜に帰ることは少なく、領民の困苦は耳に届かなかった。城の完成後も5斗入りは変わらず、農民の困窮と不満は募った。
寛永17年(1640)、若狭3郡252村の庄屋は、禁を破って集い、事態収拾のため、領主に訴願する。この総代に選ばれたのが新道村(現上中町新道)の庄屋、若干16歳の松木庄左衛門であった。嘆願は9年に及んだが無視され、代表の庄屋たちは投獄された。最後まで、意志を貫き、訴え続けた庄左衛門は磔刑に処せられた。ただ酒井忠勝はその義挙に感銘を受け、年貢は元に戻った。
処刑後、庄左衛門の亡骸は地元の正明寺に葬られ、山門の左手には死後83年を経て建立された墓が現存し、今も花が絶えない。今年10月、350年忌の法要が営まれた際、100人を越える参集者は、いずれも墓の前で丁寧に手を合わせていた。処刑の場となった日笠川原には、明治になって義民顕彰記念碑が地元の人々によって建てられ、現在は小さな史跡公園となっている。10月16日の命日には毎年追悼祭が開かれる。昭和8年には松木神社が創建され、10年には遺徳を顕彰し、青少年の研修の場として義民館も建設され、今も活用されている。
農民を守り自らの命を捧げた松木庄左衛門を偲び、いま上中町では、350年の時空を超えて、農林業再生の新しい道を模索している。