法政大学教授 岡崎 昌之 (第2398号・平成14年5月20日)
サッカーのワールドカップが始まろうとしている。初めてアジアで開かれる。かつ日本と韓国の共同開催という、70年を超えるワールドカップの歴史の中でも、記念すべき大会となる。国内の町村ではさすがに大会開催地はないが、各国の代表チームの事前キャンプを受け入れる町村は多い。住民が受け入れ国の言葉を習ったり、歓迎の準備を始めたりと、話題も豊富だ。
ワールドカップへの関心は世界的に高い。最近では、オリンピックを大きく上回る、世界最大のスポーツイベントになってきた。それにともなって放送権などをめぐるビジネスも過熱気味だ。世界中の人びとがこれだけ高い関心を持つには、それなりのわけがある。大きな理由のひとつは、出場する32カ国のサッカースタイルが、それぞれの国民性を色濃く繁栄しているからだ。応援にもおのずと力が入る。点を取る事よりも個人の華麗な技を披瀝するがごときのブラジル、あくまで理詰めで一分の隙間もない組織的サッカーのドイツ、といった具合だ。
日本のサッカーも随分進歩した。フラットスリーの守備陣を基盤に、中盤で相手を囲い込み、ひとたびボールを奪えば、全員で攻撃に転じる。サッカーの醍醐味も、またこの瞬間にある。一人のプレイヤーがボールを持つ、瞬時にして他の10人が、ボールを出しやすい陣形を整える。ボールを持つ選手がリーダー、それを受けて次に展開するフォロアーといった関係だ。ボールがフォロアーの一人に渡ると、今度はこのプレイヤーがリーダーとなる。リーダーとフォロアーが軽やかに役割を変えながら、試合を進めていく。
こうとらえてみると、サッカーの試合はなにやらまちづくりの世界に似ている。課題やテーマごとに、あるときはリーダーに、課題が変わればリーダーがすぐフォロアーに変じてリーダーを支援する。こうした柔軟な役割交代が出来る地域社会の空気を、常に醸成しておくことこそ重要ではないか。