法政大学教授 岡崎 昌之 (第2391号・平成14年3月11日)
愛媛県内子町は昭和50年代初頭から、町並み保存に取り組んだ町として名高い。古い町並みの中で人びとが日常の生活をし、それを誇りにしている。そのことが魅力となり、多くの観光客も訪れる。最近では、この活力を周辺の山間部にも広めようと、棚田の残る石畳地区で、住民主体の村並み保存が軌道に乗ってきた。中核施設の「石畳の家」は、農家の主婦が中心となって運営され、多くの宿泊者を惹きつけている。
そうした中、そのあり方を再評価しておかなければならないのが、町並み保存地区に程近い「内子座」の存在だろう。大正天皇の即位を記念して、地元有志が建設資金を出し合って、大正5年に建てられたのが内子座だ。蝋製造から得た莫大な利益をつぎ込んだ。終戦間際まで歌舞伎が上演され、内子文化の中心と言ってもよかった。しかし戦後、一時期は映画館として使用されたものの、昭和30年から50年までは地元の内山商工会の事務所、それ以降は倉庫として荒れるがままであった。
町並み保存が評判になるにつれ、内子座の存在も違った意味で話題に上がるようになった。それは内子座を潰して、訪れる観光客用の駐車場や道路拡幅用地にしようといった意見だった。昭和56年、町では住民に対してアンケート調査を行なった。内子座を残そうという意見は僅か数パーセント、7割近くは取り壊せというものだった。そういう住民の意向にもかかわらず、町では修復、保存に踏み切った。
昭和58年から3年間で7千万円、その後5千万円をかけて内子座は再生した。61年には町並み保存の先輩格、ドイツ・ローテンブルクの市長も招いて、町並み保存10周年を記念して、全国規模のシンポジウムが内子座を舞台に開催された。それを皮切りに内子座は町の文化ホールとなる。現在でもほぼ毎週、様々な企画が実施されている。内子座を見学に来る人たちの入場料300円で、施設の管理費自体もまかなえるようになった。最近のアンケート調査では、内子町民が最も誇りにするものは「内子座」だという結果も出た。
いらないものを殺ぎ落とし、町の誇りを浮かび上がらせる、深みのある取り組みが必要なまちづくりの時代となった。