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農政と「限界集落」

印刷用ページを表示する 掲載日:2006年3月6日

東京大学大学院 助教授 小田切 徳美 (第2552号・平成18年3月6日)

いま農政分野で、集落への関心が高まっている。中山間地域における直接支払制度の導入、米政策改革による地域水田農業ビジョンの策定、そして農政改革下の集落営農の推進等と、最近の農政の基調は「市場主義農政」であると同時に、「集落主義農政」と表現できるほど集落段階での合意形成を重視する色彩が強まっている。

こうした農政の要素は、水田農業が大宗を占める日本では欠かせないものである。水田と一体化した水路・農道・山林を集落等の組織が維持管理することにより水田本体の利用がはじめて成り立っており、その事実を完全に無視した農政は日本では機能しないと言っても過言ではない。

ただし、こうしたなかで注意すべきことは、個別の農政推進の視点から集落を評価して、その施策に対応しない集落を低く位置づけ、さらには他の政策対象の枠外におくようなことがあってはならない点である。

最近、議論が活発化し始めている「限界集落」問題についても、そうした注意が必要である。たしかに、中山間地域では、「人」と「土地」の空洞化に続き、「むら」の空洞化が始まっている。

しかし、集落協定を締結しなかった集落や集落営農づくりに乗り出さない集落を、いつのまにか「限界集落」として、追いやってしまったり、切り捨ててしまったりしたら、それは大きな問題である。農業生産の継続への意識的取り組み(集落協定)や組織的対応(集落営農)は、集落にとって重要な課題であるが、しかし集落内の日々の暮らしの課題はそれだけではない。事実、住民の高齢化がかなり進んで集落でも、行政上の課題とは異なるきっかけで突然「危機バネ」を働かせて立ち上がる事例も存在している。

集落には行政の基準のみにでは計れない行動論理があり、「どっこい生きている」と動き出す可能性がある。そのため、一般に、「消滅」「限界化」というセンセーショナルな言葉の響きとは違って、集落は相当のねばり強さを持っていると言えよう。

「限界集落」問題への政策的対応の難しさがここにある。集落は生産の場のみではなく、生活の場、そして自治の場でもある。そうした複数の視点から、集落を位置づけ、個々の集落を見つめ続けていくような仕組みが、集落対策の基本として要請されているのであろう。