東京大学名誉教授 西川 治 (第2374号・平成13年10月22日)
年をとると上を向いてばかり歩けないが、しばしば大樹を仰ぎ、星空を達観し、右顧左眄(うこさべん)せず、むしろ後顧前望したいものである。今は還暦後の16歳、中学3年のころ国語の副読本として、室鳩巣(1358―1734)の著『駿台(すんだい)雑話』(岩波文庫)をあてがわれた時の感動を想い出す。
それから約30年後、1972年6月ストックホルムで開催された史上初の人間環境会議に向けて、国連の同会議事務局長より日本地域開発センターにも提言が求められた。その委員会で私は「老僧が接ぎ木(つぎき)」という逸話を紹介した。
鳩巣が子供のころ谷中のある僧侶から聞いた話である。寛永のころその寺の前住職は、80歳になってもなお庭に出て接木に精を出していた。ある日、将軍家の一行が狩の途中にこの寺の前を通った時、つと将軍は寺の中へ入っていった。住職は将軍とは知らず別に態度も改めず仕事を続けていた。将軍が「房主、何をしているのか」と尋ねると、無愛想に「見られる通り接木をしているのじゃ」と。将軍は「その年になるお前が接木をしても、その木が大きくなるまで生命はもつまい。無駄ではないか」と冷やかした。すると老僧は「御身はどなたか存ぜぬが、何と心ないことを言うお人か。よう考えてみなされ、今この木を接いでおけば、後の住職の代になって大きくなるじゃろう。さすれば林は繁り寺にも威厳がつくというものだ。わしは寺のためを思うてやっているのじゃ」とやり返した。将軍は「老僧の言、まことに理(ことわり)なり」といたく感心したという次第。
言うまでもなく、接木は園芸の妙技であり、台木と接穂の組合せが成功の秘訣である。
ふるさとに根づいた伝統文化にどのような接穂を選びより豊かな開花、結実をもたらすか、地域ぐるみの総合学習の新しい課題であろう。但し、屋久島の縄文杉のように天然更新する郷土の森の保全にも努めねばならない。今こそ老壮方の後顧前望の智慧に大きな期待が寄せられているのである。