東京大学名誉教授 西川 治 (第2331号・平成12年10月9日)
他人の目、他者の評価は自覚を促し、主観の客観化を助ける。浮世絵の価値や瀬戸内の絶景なども、欧米人の発見であった。瀬戸内海という呼称自体が、明治初年に生まれた訳語である。それを逆手にとって近代化の遅れの劣等感を、自然美の優越感で補ったのである。
1860年と68年とに来日したドイツの大地理学者フォン・リヒトホーフェン(後にベルリン大学総長)は、明治元年8月26日には横浜を再訪、「私はこんなに粗悪に建てられた新都会をまだ見たことがない」とあきれている。一方、中国へ向う瀬戸内海の船旅では眼福感を満喫している。9月1日の日記ではおよそ次のように賛辞を惜しまなかった。「広域にわたるこれ以上の優美な景色は、世界の何処にもないであろう。将来この地方は、世界中で最も魅力のある場所の1つとして有名となり、多くの人々を引き寄せるであろう。ここには至るところに生命の躍動があり、幸福と繁栄の象徴が見られる。…この地域にはすでにパラダイスが実現している。かくも長い間保たれてきた状態が、なお何時までも続くように祈る。その最大の敵は、文明と新たな欲望の出現である。…この島々が、色々な点でよく似たギリシャ諸島よりも良い運命に恵まれるよう祈ってやまぬ。こうした美しさは見飽きることがなかった。新しい発見が絶えず私を驚嘆させた。」
だが、その願望も虚しく100年後の瀬戸内海、その津々浦々は不粋な人工景、不気味な赤潮の地獄絵と化してしまった。かつては、藍色や紺青の波間で魚たちとたわむれたり、山並のリズムと島影のニュアンス、乳色と茜色の雲海に青春の詩情を味わったり、そうした回想にふける壮老たちをとりわけ深く慨嘆させる。
しかしなお画家たちは、胸中の海景・象徴的な元風景を描き、あるいは苦労して最適の視界を選び出し、夕映えや黎明の多島海と前景の耕地や花畑、赤松や桜雲の景観に、不揃いな家並みや工場、波止場や防波堤などとの調和景を示してくれる。それらの理想景をモデルにして、浦安国(ウラヤスノクニ)の瀬戸内海を心安(ウラヤス)の美しいガイアの名園として1日でも早く甦らせたいものである。