東京大学名誉教授 西川 治 (第2324号・平成12年7月31日)
わが国では20世紀後半における驚異的な産業経済の繁栄と高等教育の普及に伴い、比較的高い水準の文化人層が増大してきた。美術・文芸・音楽などの面で、玄人はだしの人も少なくない。博物・美術館、文化会館、教養講座、出版物等、発表の場がふえたことも、その大きな支えになっている。
60年も昔のことになるが、私の中学時代の国語のK先生は、本居宣長についての授業中に、「こうした偉大な学者が現れると、周辺でそれなりの業績をあげた人々の名は霞んでしまうものだ」というような感想を述べられた。その時は“一将功成りて万骨枯る”と同じことが学界にもあるのかな、と思っただけであった。
戦後まもなく、渋沢敬三・柳田国男・金田一京助といった碩学方が創立された人文諸科学の八学会(後に九学会)連合にも関係するようになって、例のK先生は農の民俗学者であることを知った。
民俗学は戦後にめざましく発展したが、その背後には全国津々浦々の数知れぬ伝承者たちの惜しみない協力があった。そうした語部の中には、たとえば、『遠野物語』の原話を提供した佐々木喜善(鏡石)のように著者によって明記され、地元でも顕彰されている人物もあるが、大部分は学者の著書や市町村史等の中にひっそりと埋もれている。
これからは、郷土の語手たちも貴重な伝承や生活体験を、1人でも多く自らの手で書き残して頂きたいと願っている。折しも財団法人福島県老人クラブ連合会編纂『老壮が語る懐かしの福島百年、第一部・第二部』(1987年刊・暁印書館)に出合えた。実名の筆者数は337名にのぼる。この多士済々が真摯に綴る人生模様、同時代史のローカルな証言、地域文化の博物誌など、まことに興味津津、長き夏の夜のこよなき友となる。こうした住民の英知を結集した「地域民俗誌」の全国的一大集成は、生きた国民史の源泉となるので、後世への偉大な贈物の中に是非とも加えたいものである。