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ゆるぎなき十津川郷の心

印刷用ページを表示する 掲載日:2007年11月5日

早稲田大学教授 宮口 侗廸  (第2620号・平成19年11月5日)

8月初め、奈良県十津川村を訪れる機会があった。十津川村は紀伊山地の真っ只中、これ以上険しい地形はないと思われる場所に、村としてはわが国最大の面積を持つ。筆者としてはかねてより訪ねたい場所の1つであった。今回は、過疎地域の活性化優良事例の候補となり、そのための視察として念願がかなったのである。

古来免租の地として尊王の心を保ち、明治維新でも歴史に名を残す十津川郷の人々の不思議な魅力については、司馬遼太郎の「街道を行く」にも詳しい。生産力という点ではあまりにもきびしい土地柄にありながら、気高い誇りを持ち続け、維新の直前に文武館という学びの場をつくり、それが明治時代に旧制中学と認められた。今の県立十津川高校であるが、このような山また山の只中に旧制中学があったとは大変な驚きである。

明治の大水害で壊滅的な打撃を受けたこの村の一部の人たちは、集団で北海道へ渡った。今の新十津川町がその人たちがつくった水田農村である。当時の人たちがこのあまりにも平坦な地形を見て何を思ったかは想像に難くない。

世界遺産となった熊野参詣道の内、大峯奥駆道(おおみねおくがけみち)と小辺路(こへち)が、この峻険な山々を縫って十津川村を貫いている。十津川村は温泉の源泉かけ流し宣言をし、聖なる道への敬意と相まって、村を、現代の悩みから解放される心身再生の場と位置づけてきた。そしてそこから参詣道を歩き、道と村の歩みを語るボランティアとしての語り部が生まれた。名を十津川鼓動の会という。

会の活動は、果無(はてなし)という迫力ある名前の集落を通る小辺路を歩く「果無ウォーク」や、最古の神社の1つと言われる玉置(たまき)神社の近くの大峯奥駆道での「玉置山ウォーク」の実施、さらには、「なびき」と呼ばれる難所を縫って歩き、電気も水もない小屋に泊まって心身を洗い切るツアーを主催するまでになった。今回この会には全国過疎シンポジウムで総務大臣賞が贈られたが、厳しい自然の中で自己を律してきたこの村の人たちの誇りが、都市の対極にある価値として、さらに世間の注目を浴びることを期待したい。