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ネットラーの登場

印刷用ページを表示する 掲載日:1999年9月6日

評論家 草柳大蔵(第2285号・平成11年9月6日) 

インターネットの社会的効果は、今更、言うまでもないが、とくに「知識の共有」「不透明さの排除」「不安の解消」の3点が挙げられている。ことに日本の場合、同じような知的レベルの層が厚いので、知識の水平的拡散が急速に進むことが予想される。

しかし、「成功物語には必ず新しい問題がつきまとう」という言葉のとおり、最近の「東芝事件」はインターネットの利用者に大きな教訓を与えたようである。

すでに新聞雑誌などで詳細に報道されたように、東芝の情報機器についてユーザーがクレームをつけ、そのクレームに対する東芝側の荒っぽい対応をそのままインターネットに載せたため、全国から800万のアクセスがあった。このため東芝側は記者会見まで催して社長が謝罪するという事態に立ち入ったが、まもなく週刊誌がクレーマーと東芝のやりとりを時系列的に詳しく取材し、クレーマーが東芝ばかりではなく富士通にも同じような手法でクレームを突きつけていたこと、つまり“常習者”であることが明るみに出た。

この1件で、私たちがあらためて知ったことは、インターネットの画面に情報を提供する人間について、その性格やら意図やら全く知ることがなく、画面上の情報を全面的に信用していることであった。ふだん私たちは「彼の言うことなら信用できる」とか「あの人の言うことは話半分で聞いておけ」とか、人格と情報の関係を先験的に判断する知恵を身につけている。この知恵が、じつはインターネットでは盲点になったわけである。

こんどの事件が私たちに与えたもうひとつの教訓は、画面の情報に対して短時間で800万人の人が関心を寄せたことである、かつてヒットラーはラジオの演説を通じて独裁の道をひらき、ルーズベルト大統領はやはりラジオを使って対日戦のための国債を国民に買わせることに成功した。顔のみえない声でもこれほどの力がある。顔も性格もわからぬ人間がネットワークを通じて新しいヒットラー、いやネットラーになりうる可能性は否定できまい。