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泳ぎ方

印刷用ページを表示する 掲載日:2005年12月19日

九州大学大学院法学研究院教授 木佐 茂男 (第2543号・平成17年12月19日)

大学を卒業した学生が、4月の入社式や入庁時の研修でよく言われるセリフに、「大学で学んだことは、まず、忘れてください。わが社の風土、わが役所の仕組みを学んでいただきたい」というのがあるという。これは、「社会で使える学問」を小学校から大学までの教育課程を通して教えてこなかったことの裏返しなのか。

たとえばドイツの学校におけるプールの授業を日本と比較しよう。おそらく日本では決められた距離を泳げるようになるまで練習させ、泳ぐ速さを競わせる。ドイツの学校では、衣類を着けたまま、どのような泳法でもよいから溺れずに浮いている訓練をするそうだ。

20年来のドイツの知人で今やバイオリニストとして世界各地で演奏会を行う女性は、子どもの頃水泳が大嫌いだった。先生に「絶対に飛び込まない」と言い張ると、先生は、「いいですよ。でも、衣服を着て泳ぐことが大事なことはわかりますね。洪水の中で生きていけなくなっても自分の責任ですよ」と言って無理強いはしなかった。それでも、体育の成績にまったく影響しなかったという。

ドイツでは、学校で生きるための「道具」として水泳を身につけさせる。私の知るドイツの公営プールには飛び込み台と水深5メートルほどの深い部分がある。日本ならば事故が起きないように、足の届く安全なプールを作るだろう。

そういう視点は、ドイツの教育の全般にみられる。日本の社会科学系の教育は、まだまだ実用性に乏しい。法科大学院(ロー・スクール)の設置で、遅ればせながらも高等法教育と司法の実務が少し近づきつつある。

しかし、自治体職員の実務教育はいかがだろうか。次々と前例のない行政課題が発生する昨今、住民の生活全般に深く関わる仕事に携わる自治体職員こそ、住民が生きるための「使える理論と道具」を体系的に身につけておくべきではないか。人脈や根回しによる「泳ぎ方」に長けていても、住民が生きるための政策づくりに役立つとは思えない。理と実に適ったシステムとしての公務員養成の必要性は、語られて久しいのだが。