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美しさとおいしさ

印刷用ページを表示する 掲載日:2004年11月1日

静岡文化芸術大学学長・東京大学名誉教授 木村 尚三郎
(第2498号・平成16年11月1日)

地方に講演などで旅すると、田舎に行けば行くほど美しい景観、人と自然ののびやかな生き方に出会うことができ、無性にうれしくなる。身も心もノビノビして、楽しい。日本の美しさは、もはや地方の小都市か農村にしか残されていないと痛感する。

しかしながら国内観光が不振なのは、理由がない訳ではない。旅の途中の美しい景観に心和みながら、いざ目的地に着いてみると、大抵はガッカリとなる。現代人が求めているものとの、大きなギャップがあるからだ。

まず第一に、宿泊施設の外観が、ぶざまである。内部は大変に美しく、借景などは見事に設計されている。しかしながら建物外から見たきわめて不細工で、自然との調和をいちじるしく欠いている場合が少なくない。たんなるコンクリートの塊が遠慮会釈なく立ち並び、土地の美しい自然景観をブチ壊しにしている。旅人の神経を逆なでにする、目を覆わんばかりの光景も珍しくはなく、これでは何のためにはるばる旅してきたのか分からなくなる。

有名温泉地などがいま苦境に立たされている第一の理由が、大都市並みのこの「汚さ」にあろう。旅人に限らず、現代人が幸せの条件として何よりも求めているのが、目耳鼻口手足にとっての、「美しさ」だからである。

第二に地方にとって問題なのは、食事の「不味さ」である。地産地消とか有機農法の考えが行きわたり、そのぶん、都会人は地方の「おいしさ」を楽しみにする。ところが現実に旅人の前に出される料理は、大抵は期待外れである。生のまま、材料のままならおいしいのだと思うが、いったん調理の手が加わると、折角のおいしさが消えてしまう。優れた調理技術に乏しいからである。ことに東京の食が、世界の最高レベルにまで高められつつある今日、その格差には歴然たるものがある。

市町村ごとに景観条例を作るとともに、一流プロによる食のレベルアップを図る。そこから、活性化と繁栄への道がおのずと開かれよう。