千葉市女性センター名誉館長・アナウンサー(元NHK) 加賀美 幸子
(第2559号・平成18年5月15日)
津田梅子の名は多くの人々が知っていることであろう。まだ幼い7才の時に、初めて公の女子留学生としてアメリカに行き18歳で帰国、華族女学校の英語教師、女子高等師範学校(現御茶ノ水女子大)教授、そして1900年(明治33年)女子英学塾(現津田塾大学)を創立し、生涯日本の女子教育に大きな足跡を刻みつけた女性である。
石井筆子についてはどうであろうか。梅子と同じように華族女学校ではフランス語を教え、日本を訪れたグラント将軍(米第18代大統領)やあのベルツ水でも有名なドイツ医学者ベルツ博士をして感嘆の声をあげさせた才色兼備の女性であった。
しかし、歴史の中に大きな名を残した梅子に対して、筆子の名を知る人はほとんどいないと言っても過言ではないと思う。梅子は1864年生まれ、筆子は1861年であるから、殆ど同じ時代を生きた二人だが、境遇も分かり合える仲の良い友達であったことを知って、ほっとするのである。近代を拓いたといえる二人の人生の違いはなんであろうか。
筆子は長崎に近い大村藩の藩士の娘として生まれ、維新後は父の出世に伴い東京で当時唯一の女子高等教育校であった竹橋女学校に入学し、フランスにも留学、ミッション系の学校を主宰したり、大日本婦人教育会の設立に奔走したり、文明開化の時代の先端をいく魅力的な女性であった。写真の姿もひときわ美しい。結婚をし三女に恵まれるが、三人とも虚弱であったため、彼女は女性の人権と自立への社会的活動に力を尽くす一方で、不幸な子供たちを救う教育に静かに向かう決意をし、女子高等教育は梅子に任せ、日本で初めての知的障害児施設(現滝之川学園)に住み込み1944年終戦の前年、83歳で亡くなるまで自らの力と思いを福祉に捧げたのである。「いばら路を知りてささげし」…彼女の言葉である。
明治、大正、昭和、激動の時代の中での、梅子の役割と筆子の生き方、私は先人の思いを改めて今噛みしめている。