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荒涼たる風景?

印刷用ページを表示する 掲載日:2017年4月10日

作新学院大学名誉教授・とちぎ協働デザインリーグ理事 橋立 達夫
(第2996号・平成29年4月10日)

忙中の閑を見つけて、栃木県立美術館の「額装の日本画」展を見に行った。掛け軸や屏風、襖に描かれていた日本画が、明治以降、西洋の文化や、和紙生産技術の進展、院展などの出展規則の影響を受けて、次第に額装されるようになり、やがてそれが主流になっていく経緯が、丁寧に展示されており、見応えがあった。

その中に気になる絵があった。昭和の初期に黒磯で活躍した峰村北山作の『荒涼』と題する一点である。山中の小さな畑に茄子や稗、紫蘇が実っている。鶏頭の赤い花も見える。畑のわきには藁屋根の薪小屋。人の姿は見えず、確かに寂しい風景ではあるが、はたしてこれが荒涼たる風景であろうかと考えたのである。

荒涼たる風景と言えば、思い出すことがある。30年ほど前、長野県の山村で見た、集落移転で挙家離村した後の村の風景である。無住になった家が二度と使われないよう、重機で屋根に大穴を開ける作業の現場に行き会ってしまった。すでに家屋敷や田畑が篠竹の藪に覆われつつある。眼前の荒々しい光景を見つめる人のつらさはもとより、家を壊すことを命じた人、法律の作った人の心の中にまで広がる荒涼を感じ、胸が痛んだ。

それに引き替え、この絵の中の畑は人の手でやさしく育まれている風景である。荒涼というより、むしろ調和と豊かさを感じる。なぜ画家はこの絵に『荒涼』という題を付けたのであろうか。こうした風景を荒涼と感じ、電柱や舗装道路がある風景を文明と考えてきたことで、山村の価値が見失われてきたのではないか、それが今日の山村の衰退につながったのではないかという思いが湧いて、私は、この絵の画題に納得がいかなかったのである。

解説には、「峰村北山は、風光明媚な那須を愛し、観光を地域発展に活用したいと考えた。」とあった。風光明媚と山里の畑は対極にあると考えたのであろうか。しかし『荒涼』の絵を見続けていると、描いた画家の温かい視線が感じられる。次第に、画家の本意は、「これが荒涼?」という、見る者への問いかけであるように思えてきた。