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「待つ」力

印刷用ページを表示する 掲載日:2017年5月22日

作家・エッセイスト  阿川 佐和子(第3000号・平成29年5月22日)

私は東京生まれの東京育ちで、この60数年間、一貫して都会の近辺で生きてきた。そんな人間が農山漁村の人たちにもの申す資格などないように思われる。ただ、世知辛くも慌ただしい都市部に住んでいるからこそ、過多と思われる情報の渦中で仕事をしているからこそ、感じることはある。

先日、京都の楽焼の第十五代、楽吉左衛門さんにお会いした。千利休に見出されて茶碗をつくった初代、長次郎から始まって400年あまり、ひたすら土をひねり、試行錯誤しながらも楽茶碗の伝統を引き継いできた歴代とご自身の苦労話も面白かったが、その茶碗のもととなる聚楽土という特殊な土の話はことのほか私の心に残った。

「どんなに技を磨いたところで茶碗のもとになる土を絶やしてしまったら、楽焼は続かなくなる。だから、私たちは代々、必死で土探しをしてきたのです。自分が使うためではなく、孫やひ孫が使うための土を。子孫のために用意しておかないと、十五代は何をしていたのかと怒られますからね」

楽さんの話を聞いて、思い出した。そういえば林業の人たちも言っていた。

「今、自分が植えた苗がどれほど立派な木に成長するか。それを自分の生きているうちに見届けることはできないのですよ」

農業に携わる人々とて、同じ気持だろう。土を耕し、種を植え、苗を育て、下草を処理し、害虫がつかないように気をつけ、そしてようやく作物を収穫するまで、どれほどの月日を待ち望むことか。

現代人は日々刻々「待つ」ことをしなくなった。「待つ」ことは不便とみなすようになった。メールを書けばすぐに返事がくる。電話をかけるとどこでも通じる。早い乗り物に乗ってどこへでも瞬時に移動できる。欲しいものはどこからでもあっという間に手元に届く。そして、すぐに結果を出せない人間は仕事を失う時代である。速効性ばかりを重視することが、はたして人間の幸せに繋がるのだろうか。最近、私は疑問を抱くようになった。

「待つ」ところに文化が生まれるのではないか。「待つ」ことが人間を育てるのではないか。せめて自然と対峙して生きている人々の「待つ」力を、消費者である身はもっと理解し、尊敬すべきではないかと、私は思う。