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「平成の大合併」とは何だったのか -合併検証の課題-

印刷用ページを表示する 掲載日:2009年9月14日

福島大学教授 今井 照(第2693号・平成21年9月14日)

「失敗」は「成功」

平成の大合併とは何だったのかということを考える一助として、現在、地域内の有識者層に対する全国アンケートを実施している。合併前にどう考えていて、合併後はどう評価しているか、地域内の各層によってその傾向には特徴がみられ、また自由記入欄からも切実な声が聞こえてくる。年内には結果をまとめるつもりで集計を急 いでいる。

論文検索サイトを利用すると、平成の大合併に関する論文や単行本は約3,000にのぼる。市町村合併が日本の市民社会にとっていかに重要な問題であったのかがわかる。ただし、大部分は合併前に書かれたもので、推進的立場にしろ、批判的立場にしろ、「合併したらどうなるか」という将来の問題としてとらえられたものが多い。合併して(あるいは、合併しなくて)どうなったかという検証は案外少ない。

これまで実施されてきた自治体の首長、議員、役所などに対するアンケートは、当然のことながら合併について現状肯定的な結果になっている。その逆に、合併しなかったところがほとんどを占める町村会や町村議会議長会が中心となってまとめた合併検証レポートは、批判的なアプローチが多い。新聞社が実施してきた市民意識調査では、市民の半数は合併について無関心で、残りの半数を合併肯定と合併否定で分けるというのが一般的な傾向である。市民の半数が無関心という事態そのものが大問題であるが、いずれにしても、立場によって今回の合併をどうみるかという見解がかなり異なることはわかる。

私は2008年に出した著書(『「平成大合併」の政治学』公人社)のまえがきで「今回の市町村合併は、どこからどうみても失敗であった」と書いたが、このような情緒的な表現は研究者としていかがなものかという批判をいただいた。確かに、「失敗」を意図して合併を進めた人たちにとっては、むしろ「成功」だったのである。もっと冷静に、客観的に今回の市町村合併とは何だったのかということを描き出さなければならない。

昭和の大合併についてのすぐれた検証研究は合併期以後5年程度で刊行されている。それ以上、時間が経過すると合併や非合併による影響なのか、その他の要因によるものなのかが判別しにくくなってしまう。合併の成果は 10年、20年しないとわからないというのは、検証作業をサボタージュする先送りの論理にすぎない。ここ1、2年こそが合併検証にとって最適の時期であり、最後の機会ともいえる。

「美しい」誤解の数々

今回の合併について調べていくと、多くの誤解によって成り立っていたことがわかる。単純なことからあげると、「合併すれば地方交付税が減らないので、合併したほうが得」とう自治体側の誤解がある。合併前に首長が市民に対してそのように説明していたこともあったし、合併後は「減らないはずだったのに減らされた」という発言もよく聞く。

あらためていうまでもなく、合併すれば地方交付税はむしろ減額される。旧市町村が交付されていた総額を下回るからこそ、特例的に期間限定で激変緩和措置がとられるのである。このことに限っていえば、合併しないほうが合併するよりは得である。また、ほとんどの場合、合併後10年間は現状維持という計算になるはずであるから、少なくとも、今の時点では合併による減額は生じていない。実際に地方交付税が減っているのは 合併以外の要素であって、これは合併しようがしまいが同じだ。

こういう誤解で心配なのは、合併してから 15年後、合併特例措置がなくなったころに生じるにちがいない混乱である。シミュレーションしてみると、合併した自治体の地方交付税は、合併15年後に少なくとも3割程度は減額される。その時期は合併特例債の償還時期のピークにあたる。いずれもほぼ確実にやってくる。このころになれば、合併を決断した当事者たちは第一線を退いていることだろう。残されたものがその重荷を背負うことになる。

第二の誤解は、「苦しいけれど、国の財政をよくするためにはしかたない」という考え方である。合併した自治体の市町村長たちは「合併は時代の流れ」「避けて通れない道」と市民に説明してきた。これは、自分たちが犠牲になっても将来の国の財政のためにはしかたないという美しい精神のようにもみえるが、もし前提となる事実が異なるとしたら単なる自虐的自傷的行為である。

総務省に置かれた研究会は合併による財政効果として、10年後に約1兆8千億円という数字を出している。一般人からみれば、1兆8千億円というのは途方もない数字であるが、地方財政計画を分母とすれば約2%にすぎない。地方財政計画にとって2%とは誤差の範囲内で、現実に、毎年、この程度の増減がある。地域社会がこれだけの犠牲を払って実現した市町村合併が誤差の範囲内であり、しかもそれは10年後になって実現する数字だとしたら、あまりにも切ない。

現在、人口1万人以下の市町村の地方交付税は全体の約5%である。小規模市町村を絞れば地方交付税が浮くというのも誤解にすぎない。全体の5%の中をたとえ2割削減したとしても、全体では1%の削減にしかならない。しかし2割も削減された小規模市町村にとっては多大な犠牲を払う。全体の効果はきわめて少ないのに、個々の地域社会にとってはまさに致命傷となる。

「鰯の頭も信心から」

第三の誤解は、誤解の中でも最大のものだ。それは「合併すれば行財政の効率化になる」というものである。今回の合併が国政の政治家によって唱道され、地域内の企業家グループによって後押しをされたというのは、ほぼ間違いのない事実だ。彼らがなぜそのような行動に出たのかは、いまだにはっきりとしないが、確実なのは、その背景に合併すれば行財政の効率化に繋がるという、ほぼ「鰯の頭も信心から」にも似た誤解がある。

2007年の参院選で自民党が大敗したとき、自民党自身の総括の中に、市町村合併によって選挙の動員力となる自治体議員が減ったからというものが含まれていた。執筆日時点では不明だが、ひょっとしたら今回の総選挙でも似たようなことがいわれるかもしれない。もしこれが現実であればこの程度のことは予測可能であったし、実際にそのような指摘もあったわけだから、あえてそれを承知しつつ、国政の与党が自分自身の身を削るような合併を推進したということになる。さすがにこれではあまりにも非合理的な行動である。

国政与党がこのような非合理的行動を取った原因を推測してみると3つの可能性がある。第一は、単純に誤認していた、そうなるとは思わなかったというものである。第二は、そうなると思っていたがあえてそうした、第三は犠牲以上にもっと得になることがあっ たということが考えられる。

まず第三の可能性から考えてみる。地域社会には合併騒動によって得をした人たちがいる。しばしば「合併バブル」と呼ばれたが、「合併バブル」は合併後に来るのではなく、ほとんどは合併協議過程の「合併前」にきている。これまで貯めてきた積立金を合併前に取り崩し、地方債をたてて事業を実施し、合併後の自治体にその債務を先送りする、というのが合併自治体の一般的な行動だからである。

債務を背負うのは新しい合併後の市民だが、当然のことながら、合併後の市民は合併前の市民によって構成されている。好意的に考えれば、市民にとっての損得は中立的だが、その一方で事業は既に実施されており、その支払いは済んでいるわけだから、得をした人たちがいる。つまり、このような人たちに支持される国政政党が合併を推進したということが考えられる。こう考えれば、合併が行財政の効率化に繋がるというよりはむしろ、合併こそ最大のムダ遣 いといえる。

第二の可能性について、もちろん個人レベルで自虐的自傷的な性向があることは認めてもよいが、国政を担う政党がそうで、市民や地域社会の犠牲を巻き込むとしたらあまりになさけない。

企業合併との錯誤

問題は第一の可能性で、どうして合併が効率化に繋がると誤認したかということだ。私の推測によれば、このような人たちは市町村合併を企業合併と似たようなものと理解していたにちがいない。銀行やスーパーをはじめとした各種の企業合併の主たる狙いは、シェアを拡大し、特に国内の競争環境をできるだけ排除してグローバル 化に備えるというものである。つまり消費者側の利益を圧縮して、その分、企業側の行動が自由になるように意図されたともいえる。

しかし市町村はもともとシェア100%であり、合併しても単純に人口や面積が加算されるだけにすぎない。消費者と企業との関係のように顧客のダブりはなく、その点で合併効果は生じない。確かに首長や議員の数は減るが、直接的な効果はそれだけで、もし合併による効果を追求すれば、中心部に投資を集中し、周縁部を切り捨てていくことでしか成り立たない。企業合併では、集中化された投資でこれまで以上の成果があげられればそれでもよいが、市町村はすべての市民と地域に対するユニバーサルサービスが前提であるから、そういう意味でも効率化は進まない。むしろ大規模化することで非効率化する可能性のほうが高い。

一方、前述のように、合併すれば否応なく財政規模は縮小される。効率化の果実がないままに、全体が縮小されるのであるから、合併は住民側に犠牲を強いて、役所が生き残ろうとするシステムにすぎないのである。国政政党や地域内の企業家グループがここまで理解して合併を推進してきたのであれば、別の意味で感服するが、おそらくそれほどの悪意からではなく、善意から誤認しているだけだろう。地獄への道は善意で敷き詰められているのである。

大規模化すれば効率化するという素朴な誤解が道州制論議でもみられる。政治的、市民自治的な側面からみれば、合併には一理もないが、効果があるとみられた経済的合理性や効率性からみても合併には何の一利もない。これらのことは学問的世界では常識レベルであり、昭和の大合併の検証時にもそのように主張されてきた。なぜ同じ過ちを何度も繰り返すのかといえば、やはりみんなの犠牲によって誰かが得をしているのではないかという疑念が拭えない。

今井先生の写真です 今井 照(いまい あきら):福島大学行政政策学類教授。1953年生まれ 東京大学文学部社会学専修課程卒業後、1977年より、東京都教育庁(学校事務)、大田区役所(企画部、産業経済部、地域振興部等)勤務。1999年より現職。近著に、『「平成大合併」の政治学』公人社、『市民自治のこれまで・これから』公職研、『自治体政策研究ノート』公人の友社、など。雑誌『ガバナンス』に連載を掲載中。