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「地蔵寺村」の響に誘われて

印刷用ページを表示する 掲載日:2024年5月27日更新

フリーアナウンサー 青山 佳世(第3281号 令和6年5月27日)

 「地蔵寺村」何とロマンあふれる響きでしょう。今年の2月に亡くなられた「均等法の母」と呼ばれた赤松良子先生のお母さまの故郷です。「高知へ6里 いくつもの山を超えて行った」とお話しになられる程、山深い場所だったと言われます。先日、私たち女性リーダーの集まりで高知に行くことになり、地蔵寺村へぜひ行ってみたいと思ったのですが、町村合併で土佐町となり手がかりもありません。数年前に「四国のいのち」と言われる早明浦ダムの視察にお邪魔しました。その後大規模な洪水に備えるための再生工事が進んでいると聞いて再び視察することにしました。その打ち合わせの中で「旧地蔵寺村は早明浦ダムのある今の土佐町です。生家もわかるかもしれない」とのお返事。思わぬ展開に胸が躍りました。ダム事業は地元との密接な意思疎通の中で行われますから、よくご存知なんですね。

 ダム直下で吉野川と合流する地蔵寺川を下っていくと、そこが旧地蔵寺村です。水を育む豊かな森林に恵まれ、重厚な門構えと石垣の塀のお宅が並んでいます。歴史が穏やかに流れる佇まいです。私たちを迎えてくださったのは、元町長の西村卓士さん、赤松先生のお母さまの遠い親戚筋にあたる方です。赤松先生は平成7年(1995年)にお母さまの墓参に旧地蔵寺村を訪れ、小学生と語りあう当時の写真も町の館報に残っていました。平成14年(2002年)に高知市を訪れた赤松先生から「先回訪れたあの学校に植樹して欲しい」とお話があり、思い出の小学校の入り口に金柑を植樹されたそうです。今は土佐町役場地蔵寺支所となった旧地蔵寺小学校、地元の木をふんだんに使ったぬくもりを感じる場所です。その金柑が枯れてしまい「赤松先生とのご縁も途切れてしまったと思っていたところ、思いがけず東京から来てくださって…」と西村さんは感慨深げに一緒に植樹をしてくださり、私たちもまた胸が熱くなりました。植え直した金柑が赤松先生の想いをつないで大きく育ってくれることを祈りつつ土佐町に別れを告げました。また金柑を見に行きます。