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ヒガンバナの旅

印刷用ページを表示する 掲載日:2023年11月27日

國學院大學教授​ 西村 幸夫(第3261号 令和5年11月27日)

 お彼岸の時期は過ぎてしまったが、ヒガンバナの話題をひとつ。――全国の田んぼの畔などでよく見かけるヒガンバナはすべてクローンだということをご存じだろうか。

 ヒガンバナの遺伝子は三倍体といって、不稔性であり、種子をつけることはない。遺伝子が三倍体の植物は種なしスイカのように人為的に造ることは可能であるが、ヒガンバナの場合、何らかの理由で海を渡ってきた株が、株分けされ、多くの人の手を経て、日本中の田舎に帰化したものらしい。だからヒガンバナはすべてクローンなのである。

 通常の植物が受粉し、風や鳥の力を借りて、あたりに子孫を増やしていくのとはまったく異なり、多年草であるヒガンバナが咲く風景とは、人の手によって形作られた風景だということを意味している。

 その気になってヒガンバナのある風景を思い返してみると、いずれも田んぼの畔や川の土手のような、人の生活の場に近いところがほとんどで、深山幽谷ではヒガンバナはまず見かけないということに気づく。ただし、人の生活に近い場であればどこでもヒガンバナがあるとは限らない。畔でもヒガンバナが咲いている場所と咲いていない場所とに何らかの規則性があるようにも思えない。

 すべてのヒガンバナの株は、かつて誰かがその場に移植したから、その場に咲き続けているのである。そうだとしたら、咲いている場所と咲いていない場所とを分けるものは、かつて誰かがその場所にヒガンバナを植える気になったかどうかだということになる。つまり、人が植える気になるようなところにヒガンバナは植えられ、そこで咲いているのだ。ヒガンバナが咲く土地にはヒガンバナにふさわしい物語が潜んでいるといえる。

 そういうことを意識してヒガンバナの咲く風景を見返してみると、ヒガンバナを株分けしてきた人々の風景に対する想いが見えてくる。同時に、はるばる異国からやってきたヒガンバナが、ほかならぬこの地に根付くまでに長い長い旅があったことに思い至る。

 可憐な一輪の花の風景にもこんな壮大な旅の物語がある。それを知ると、なお一層ヒガンバナを大切にしたくなるのは、私だけだろうか。