ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > コラム・論説 > 上湧別の通り景観とその背後の物語

上湧別の通り景観とその背後の物語

印刷用ページを表示する 掲載日:2022年8月29日

國學院大學教授​ 西村 幸夫(第3211号 令和4年8月29日)

 すでに30年以上前の話だが、かつてオホーツクのまちづくりの一環として、上湧別(現北海道紋別郡湧別町)の町並みの調査を地元のメンバーと一緒に行った時のことである。ひろびろと見渡せる平原に、まっすぐな道路が走っている、いかにも北海道らしい風景なのであるが、細かく見ていくとこうした風景の背景にある様々な物語が見えてくる。

 たとえば、平野を北東から南西に向かって走っている国道242号線がまちの背骨なのだが、これは湧別川に沿った細長い平坦部に引くことのできるいちばん長い直線で、これがそのままグリッドの基線となっていること、この道路はその先、遠軽の向こう側の小山に向かって突き当たるように引かれている、いわゆる「山あて」であること、この幹から直交して15号線や20号線などの大きな枝線が出て、さらにこの枝線と直交する東1線や西1線などの区画道路、そして居住地には東1条や西1条などのさらに細かいグリッドもある。同じように見える格子状の道路なのだが、よく見るとそれぞれ役割があり、生活の中で異なった使われ方がされていることが分かる。碁盤の目のような道路はいかにも無個性に思われがちだが、じつはそれぞれに個性を持っていることが分かってくる。

 上湧別は屯田兵の入植地で、基線道路は1892年に開通、最初の屯田兵が入村したのは1897年だった。現在も屯田市街地や北兵村、南兵村などの地名が残っている。「南兵村三区」と書かれた煉瓦造りの門柱も「発見」された。さらによく見ると、住居や倉庫のほか、サイロや煙突など煉瓦造りの建物が30棟余りも残っている(その後も発見が続き、計65棟にのぼっている)。昔、地元に煉瓦工場があったことも分かってきた。

 自分のまちを旅するような感覚で、目を凝らして歩くとこれまで気づかなかったような手がかりに出会えるということを、上湧別から学んだ。直線道路だけのまちにも数多くの物語が込められているのである。ましてや、曲がった道があるまちで、うちのまちには何にもないなどということは、まずあり得ない。

​ そんな実感を昨日のことのように思い出す。