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北海道の殖民区画

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年2月15日

國學院大學教授​ 西村 幸夫(第3149号 令和3年2月15日)

都市・地域の計画を専門としている身にとって、北海道の開拓の歴史は、日本の他の地域とは異なり、計画段階からほとんどの記録が残されており、それが形となって現実の空間として残されている(あるいは未完の計画として図面が残されている)点で特別に魅せられてしまう。

北海道の開拓というと屯田兵村が有名だが、農地の大半は、北海道庁による殖民地撰定事業(1886-1946年)によって生み出された。この事業によって開拓可能な土地として選定された土地は402万ha、北海道本島の面積の50%を超えている。現在、私たちが北海道で見る農地景観のほとんどは、同事業のもと、殖民区画制度(1890年)によって造られたものである。

殖民区画は、まず、「基点」と基準となる軸線である「基線」の道路を引き、これと直交する「基号線」と呼ばれる道とで、基点を中心にした十文字の道路を造り、そこから300間間隔で格子状の道路を造っていくというものだった。基線に並行して300間ごとに引かれた道路を東〇線などと呼び、基号線に並行して300間ごとに引かれた道路を北〇号線などと呼んだ。こうしてできた道路で囲われた300間四方の画地、9万坪(30町歩)を6等分して、間口100間、奥行き150間、1・5万坪(5町歩)の画地が各開拓農家の営農の単位となった。

これはアメリカ州中西部に多いタウンシップと呼ばれるグリッドパターンをまねて日本に移植したものだと言われているが、アメリカでは基線が南北軸、基号線にあたるものが東西軸であるのに対して、北海道では、周辺地形に合わせて適宜、軸線を設定する点が大きく異なっていた。

その結果、グリッドごとの小宇宙が形成されることとなり、これが北海道の殖民グリッドの個性となっている。クルマで走っているだけでは気づきにくい差異ではあるが、わずかな軸線の変化にも歴史があるのだ。地図とにらめっこすることで見えてくる地域の特色でもある。もう一度、地元の地図を目を凝らして見てみることをお勧めしたい。