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沖縄県多良間村/多良間村の伝統文化・工芸品とその継承

印刷用ページを表示する 掲載日:2024年4月15日

令和5年9月の仲筋字の組踊(忠臣仲宗根豊見親組)の一幕。

▲令和5年9月の仲筋字の組踊(忠臣仲宗根豊見親組)の一幕。


沖縄県多良間村

3277号(2024年4月15日)
沖縄県多良間村 地域おこし協力隊 登 彰子


多良間村の概要

​ 多良間村は、多良間島と水納島の2島からなっており、沖縄県の先島諸島東部、宮古列島に位置し、東を宮古島、西を石垣島に囲まれた、面積約20km²の楕円形の島です。隆起した珊瑚礁からなる島のため、沖縄でよく見かけるハブは生息していません。

 人口は約1,100人(令和5年12月末現在)、サトウキビの生産・畜産を主とする第一次産業が盛んで、特に特産品である黒糖(サトウキビ原料)は、沖縄県内の生産量シェアの約40%を占め、全国一の生産量となっています。

 島へのアクセスは、宮古島から琉球エアコミューター(RAC)が1日2便、多良間海運によるフェリーたらまⅢが1日1便(日曜・荒天時運休)となっています。石垣島からのアクセスは、現在の日本トランスオーシャン航空(JTA)の前身である南西航空が撤退して以来、開通していませんでしたが、令和6年1月22日より、第一航空が週に2便(土・月)の運航を再開すると発表し、今後は石垣島からの観光客のアクセスも増加することが見込まれます。

 伝統行事を非常に大切にしていることも特徴で、島の祭紀は後述する「八月踊り」を含め、小さいものを含めると数えられるだけでも20~30以上あり、全て旧暦で行われます。各行事は年長者・年少者が一緒に行い、年長者が年少者に行事の手順や踊り、唄などを伝えていくという伝統が代々続いています。

八月踊りのはじまり

​ 多良間島の八月踊りは、いつ頃から始められたものであるか、詳細は定かにはなっていませんが、本来の名称が「パチュガツウガン(八月御願)」と称されていることから鑑みると、かなり古い時代から始められていたものと考えられます。首里王府より村に課されていた人頭税(穀物や反物等)を、その年の旧暦七月までに納め終わり、翌月の旧暦八月には、各御嶽に「完納の報告とお礼」を述べ、「来年の豊作を祈願」したといわれています。その際に、御嶽の神前で舞われた「民俗踊り」が、八月踊りの起源とされています。

 当初は、獅子舞や棒踊り、キネツキ踊りなど、人々の生活に根差した「民俗踊り」が多く舞われていたと考えられていますが、明治時代に入り、沖縄本島の首里から影響を受けた「古典踊り」や「組踊」が多良間にも伝わり、それまでの民俗踊りと合わせて継承されてきました。踊りの衣装にも首里の影響を受けたものが多く見られます。

八月踊りの準備と開催

塩川字の「支度(スタフ)座」。獅子舞が出番を待つ。

 八月踊りは、毎年旧暦の八月八日から3日間の日程で行われることが慣例とされており、この日程は年度初めに今年1年の村の年中行事や祭りの予定を決定する場である「ニサイガッサ定例会」で正式に決定されます。「ニサイガッサ」とは、村の行事を取り仕切る男性たちのことです。多良間村の行事予定は全て「仲筋」「塩川」という各「字」ごとに男性が取り仕切り、八月踊りも「仲筋」「塩川」の字ごとに分かれて執り行われます。

 八月踊りは、両字とも字長を筆頭に、「老人座」「中老座」「実行員」に分かれており、この役割は代々、年長者から年少者へと継承されていきます。踊りの中心となるのは「中老座」であり、ここには踊りの中心を担う、「羽踊座」「組座」「地揺(ズーニン)座」「獅子座」「狂言座」「笠座」「支度(スタフ)座」「幹人座」と、それぞれの踊りや、衣装の支度、経理等を担当する座が8つあります。各座には必ず年長者が指導について年少者の踊りや座の運営の指導にあたり、踊りの1か月前程から準備・練習が始まります。

 八月踊りの1日目は「仲筋字の正日(ショウニツ)」で、仲筋字の住民たちが塩川字の住民たちを踊り会場に招待し、自身の字の踊りを見ていただく日となります。明けて2日目は「塩川字の正日」で、昨日とは逆に、塩川字が仲筋字を招待する日です。最終日の3日目は、各字に分かれてそれぞれの字の踊りを楽しみます。3日目には、どちらの字の踊りも見たい!とばかりに、両字の会場を行き来する人の姿も多く見られます。

色鮮やかな塩川字の「支度座」の衣装

仲筋字。踊り前日の最後の練習風景。

八月踊りの流れ

塩川字の「若衆踊り」。中学生男子が演じる

塩川字の「女踊り」。中学生・青年女性が演じる。

仲筋字の「二才踊り」。「笠座」の青年が舞う。

仲筋字の八月踊り。獅子舞で舞台を清めてから踊りが始まる。


   踊りは、仲筋字は「土原(んたばる)ウガン」、塩川字は「ピトゥマタウガン」で行われ、踊りの日の早朝には各会場の拝所にお神酒と料理をお供えし、今年の豊年に感謝し、来年の豊穣の祈願を行います。他にも島内にある各御嶽を巡り、同じように豊年祈願をしてから、午前10時頃に演目が始まります。

 午前10時頃に始まった踊りの終了は午後8時半前後と、毎日かなりの長丁場となります。その間にさまざまな演者が入れ替わり立ち代わり舞台に立ちます。観覧される方々は、お弁当や飲み物を持ち込まれ、1日中会場で過ごされることも多いです。

仲筋字の「福禄寿」 若衆踊り・女踊り・二才踊りの 演者が集合する

 踊りは「総引き」といって、当日の演者全ての顔見世から始まります。全員が舞台を1周し観客に顔見世を行った後、獅子舞が舞い、舞台を清めてから演目に入ります。踊りの演目は字ごとに異なっていますが、獅子舞の後に「棒踊り」、その後「若衆踊り(主に中学生男子)」「女踊り(中学生~青年女性)」「二才踊り(青年)」「狂言(踊りの合間に演じられる寸劇)」の流れを各3回繰り返した後、「組踊(沖縄風のオペラに似た劇)」へと続く流れは、どちらの字も同じです。

 すべての踊りの最後にもう1度、夜の「総引き」が行われるのですが、最初の総引きとはまた違い、演者の皆さまが「頑張った!」「やり遂げた!」という感じのとても清々しい顔で、客席と一緒になって盛り上がります。演者も客席もみんな一緒に盛り上がる、この伝統的な踊りを、皆さまにもぜひご覧いただきたいと思っています。

地域の特産品の継承と観光

木曽の手仕事市で販売したあだん編み・月桃編みのお守 りカメさん

 現在、多良間島内にはさまざまな「手仕事」「特産品」に関わる住民がいらっしゃいます。そのなかには、自身の作品を島外で販売し、知名度を上げたい、または「自身の作品が島外でどのような評価を受けるのかを知りたい」と、積極的に島外へ伝統文化を売り込んでいきたいという気概を持たれている方も多数いらっしゃいます。

 その多くは、手始めとして島内の観光協会の物販スペースである「すまむぬたらま」にて作品の展示・販売を行っており、その種類は「月桃の葉で編んだかごやお守り」「苧麻を利用したピアスやストラップ」「数珠玉(すだま)のアクセサリー」「たらま花染のショール」等、多岐にわたります。内地にはない植物という珍しさから、女性を中心とした観光客が手に取り、また購買している姿を多く見かけます。

 40代半ばの制作者で、実際にSNS等で自身の作品紹介および島外の人たちへ多良間島の伝統的な工芸品をPRしている方がいらっしゃいます。この方と島外の方へPRするために協働し、島外で手仕事を披露・販売する場として、令和4年9月から長野県木曽町で開催される「木曽の手仕事市」への出店を行っています。毎年9月に行われるこの手仕事市は、日本全国からもさまざまな分野のクラフト(手仕事)作家が集い、各々自慢の作品を展示販売する場であり、例年県外からも多数の観光客が訪れることで有名で、毎年大変な賑わいを見せます。

 令和5年9月9日・10日に開催された昨年の手仕事市には、島内の40代の女性織物作家の方が、「自身の商品の反応・評価を知りたい」とのことで同行されました。鮮やかな染色の織物に足を止めてみていただける方も多く、とても収穫があった、また来年も出したいとおっしゃっていただくことができました。滞在中は木曽町地域おこし協力隊の方のご厚意で、木曽町で活動する有志の「織りの会」のメンバーが活動する工房を見学し、意見を交わすこともできました。今後はより多くの島内作家の方にご参加いただき、「多良間の手仕事」の発信に努めていきたいと考えています。

 一方、島外向けではなく島内にて販売をされたいというご意向を持った作家の方も多くいらっしゃいます。そうした方々の技術や知識が埋もれないようにするための対応も、今後必要となってくると考えています。そうした方々は総じて60代以上の方が多数で、技術を伝えていくための後継者の育成等、どのような方法があるかを検討中です。

 現在、「ものづくり体験を組み込んだツアーの造成」等を検討しています。私も旅行が趣味で、日本全国のさまざまな場所へ行っていますが、「名所旧跡を見て回るだけの観光」よりも、「自分で手を動かして何かを作る体験型観光」の方が、圧倒的に充実度の高い旅行となっています。これは、「普段と違う場所(非日常)」で「普段はできない体験(島民の生活)」をするということによる、不思議な感覚が生み出す効果と考えられます。

木曽の手仕事市で販売した苧麻の草木染などの作品

 多良間の手仕事作家の方は、個人として作品を作られている方が多いため、少人数での体験であれば(事前予約制にする等の工夫は必要)、十分に「離島でのものづくり体験」を提供できうる機会になるのではないかと考えます。そうしたツアーを、私が現在実施している「島の史跡ガイド」等のツアーの一部として組み込むことも可能であり、そうすることでより「島の伝統文化」を知ってもらうことができ、また「この伝統文化を学びたい」と、伝統文化の後継者がそのなかから出てくることも期待されます。実際、前述した女性織物作家の方は、多良間へ織物・染物を習いに来られて、そのまま定住されています。

 「伝統行事」、「伝統工芸」を非常に大切にしているこの島で、観光客の皆さまには「旅行(非日常)のなかにある日常(島民の生活)」を体験していただき、全国的にはまだ知名度もあまりないこの島の「ファン」「リピーター」になっていただきたいと考えています。ぜひ一度、「何にもないように見えるけど、なんでもある島」に降り立っていただきたいと思います。

沖縄県多良間村
  地域おこし協力隊 登 彰子