▲養殖いかだが並ぶ山田湾
岩手県山田町
3170号(2021年8月23日)山田町長 佐藤 信逸
山田町は三陸海岸のほぼ中心に位置する人口約1万5、000人の町です。面積は、約263㎢。平地部は極めて少なく、大半を山林原野が占めています。沿岸はリアス海岸特有の地形を有し、ブナやスギなどの森林に覆われた船越半島を挟んで、北側に山田湾、南側に船越湾が広がっています。
年間の平均気温は11・6℃、降水量は約1、585㎜(いずれも過去5年分の平年値)。沖合で寒流の親潮と暖流の黒潮などが混じり合い、西方を縦走する北上山地の影響を受けるため、県内陸部と比べ降雪量が少なく冬は比較的暖かいのが特徴です。夏になると、海側から湿潤で冷たい北東風「やませ」が吹き込むことがたびたびあり、山田湾にはやませの霧が幻想的に漂います。
周囲約20㎞の山田湾は、湾口が狭くつぼんだきんちゃく型で「海の十和田湖」と形容されるほど穏やかに凪ぐことが多い地形。湾内には関口川や織笠川などの河川から山間部で蓄えられたミネラル分が注ぎ込まれ、カキやホタテガイなどの格好の養殖場になっています。恵み豊かな陸中の海を象徴するように、湾内には多くの養殖いかだが並んでいます。近年では波の静かな特徴を活かして、シーカヤックやサップなどマリンスポーツの舞台としても脚光を浴びています。
船越湾は外洋に広く面し、船越半島の南東側では激しい波に浸食されて切り立った、赤平金剛や大釜崎などの海食崖が見る者を圧倒しています。またその半島の付け根には、三陸鉄道リアス線の岩手船越駅があり「本州最東端の駅」の愛称で知られています。
海と森に囲まれた豊かな自然環境は、地理的な成り立ちや歴史・文化を教育や観光に活かす日本ジオパークの一つ「三陸ジオパーク」を構成。穏やかで美しい「山田湾の景観」と、2億年以上前の海の堆積物が観察できる「豊間根川上流の地層」がその中に含まれています。
町の主要な産業は水産業。親潮と黒潮がぶつかり合い、豊富な魚介類が群れる三陸漁場での沿岸漁業や養殖漁業が盛んです。11月ごろにピークを迎えるサケ漁を中心に、サバやブリ、ウニ、アワビ、クリガニなど四季折々の恵みが水揚げされ、養殖ではカキやホタテガイ、ホヤ、ワカメなどが澄みきった海の香りを届けています。
町観光協会が運営し、カキの蒸し焼きなどを提供する「三陸山田かき小屋」は東日本大震災で被災したもののすぐに再建され、シーズンの11月から5月まで多くの観光客が訪れています。
内陸部では農業も広く行われ、水稲を中心に多種の野菜類を生産。肥えた土と昼夜の寒暖差が味の良い農作物を育てています。また、シイタケの原木栽培が盛んで、干ししいたけの品質の良さは全国的に高い評価を受けています。ほかにも県内有数のマツタケ産地としても知られています。
▲市場でも評価の高い殻付きカキ
▲シイタケ栽培など農林業も盛ん
豊かな自然に恵まれた山田町ですが、歴史の中では幾度も大津波に遭遇してきました。古くは、平安時代の貞観11(869)年に発生した「貞観地震津波」、江戸時代には慶長16(1611)年に「慶長三陸地震津波」、その300年後の明治29(1896)年に「明治三陸地震津波」、その後も昭和8(1933)年に「昭和三陸地震津波」、昭和35(1960)年「チリ地震津波」。町は、そのたびに大きな痛手を負いながらも再建を果たしてきました。
過去の災害から学び、甚大な被害に遭った地区では集団で高台移転するなど、それぞれ対策を行ってきました。さらに津波を防ぐため、防潮堤を設置するなど、防災に向けたさまざまな対策を講じてきましたが、平成23年3月11日の「東日本大震災」では、三陸海岸一帯に防潮堤を越える規模の大津波が押し寄せ、大きな被害をもたらしました。
東日本大震災では、町内での最大震度は5強、町を襲った最大級の第1波は、波高約19mと記録されています。黒いカーテンのような高い波が押し寄せ、襲いかかるように町に海水が流れ込みました。家と家とがバリバリという音を立ててぶつかり合い、海へ引き込まれていきます。避難途中の人々にも波ががれきを巻き込みながら押し寄せ、流された車からはクラクションの音が鳴り響いていました。そこには水流に逆らうことのできない地獄絵図が町内各地で広がっていました。
津波や火災による人的被害は、死亡者数および行方不明者数が合計825人。町人口(平成23年3月1日時点での1万9、270人)の約4・3%に及びました。家屋被害は、全壊2、762棟、大規模半壊・半壊405棟、一部損壊202棟。低標高の沖積平野などに立地した家屋が津波による浸水で面的に広く被害を受けたほか、津波を原因とする大規模な火災の発生により、浸水域以外の家屋も焼失しました。町の基幹産業である漁業関係では、震災前(平成22年3月)の登録漁船1、992隻のうちほぼ9割に当たる1、791隻の船が流失し、養殖施設や作業小屋のほとんどが壊滅的な被害を受けました。
多くの町民を亡くし、焼け野原になった光景からは、今日の町の姿は想像もつきませんでした。
▲焼け野原と化した町の様子(発災直後2011年3月26日)
「二度と津波による犠牲者を出さない」を理念に、何よりも津波から命を守る町づくりを目指し、復興に向け歩みを進めてきました。平成23年12月に策定した「山田町復興計画」では、10カ年の復興ステップを「まちづくりの基礎となる土地や基盤施設の再整備と各種活動を始動する『復旧期』」、「新たな土地への建設開始と各種活動を本格始動する『再生期』」、「町の成熟化と広域的な連携による各種活動を拡大する『発展期』」をおおむね3年ずつの間隔で設定。段階に応じた施策や事業を展開してきました。
復興計画での都市の骨格形成(まちの空間イメージ)で目指したのは、既存市街地・集落を基本にした「コンパクト」なまちづくりです。宅地整備は、既存集落とできるだけ隣接する形で高台団地や災害公営住宅を整備し、従来の地域コミュニティーのつながりを重視しました。町中心部は、現在の三陸鉄道リアス線・陸中山田駅周辺と国道45号に挟まれたエリアを「まちなか再生区域」と位置づけ、震災前は広範囲に分散していた商店や図書館、郵便局や銀行などを集約。災害公営住宅(146戸)も隣接させ、利便性を確保しています。
▲商業施設や公共施設、金融機関などが集約された「まちなか再生区域」
未曾有の災害から10年。焦土と化していた町は、インフラや住宅、公共施設などの再建が進み、道路や街並みが大きく変わりました。平成30年度には、三陸鉄道リアス線が開通し、今年度は、青森県八戸市から宮城県仙台市までの全長359㎞をつなぐ三陸沿岸道路がおおむね全線開通する見通しが示されています。町では、交通インフラの整備により増加が見込まれる「観光客」や「通過客」に感動を与え、リピーターとなる『山田ファン』の拡大に向けた観光政策に取り組み、地域経済の活性化にも力を入れています。
復興計画における復旧期を過ぎ、再生期から発展期へ差し掛かった平成27年には「観光の振興」を掲げ「山田町観光復興ビジョン策定委員会」を組織。コンサルタント業者に頼らず、観光に携わる人がワーキング委員として計画を策定しました。観光復興ビジョンの策定には、会議や専門部会のほか、勉強会を開き、観光に携わる立場からの現場の声、専門的な視点、町民による検討などを積み重ねました。翌年の平成28年度には観光協会や商工会員などをメンバーとする「山田町体験観光推進協議会」を設立。「やまだワンダフル体験ビューロー」の名称で観光客向けの体験プログラムのとりまとめなどを行い、行政と民間が連携を図りながら観光復興ビジョンに盛り込まれたプランの実現に取り組んできました。
山田湾でのシーカヤック、オランダ島上陸、漁船クルーズ、養殖いかだ見学、漁業体験などのプログラムのほか、震災語り部ガイド、そば打ち体験、野菜の摘み取り体験など、被災地であり、漁業と農業が隣り合う本町らしい多彩なプログラムを体感できます。
「また来よう」――。そんな『山田ファン』を増やすため、山田町ならではの観光を磨き上げていきます。
▲波の静かな山田湾で楽しめるシーカヤック
江戸時代初期の寛永20(1643)年にオランダ船ブレスケンス号が山田湾に入港。水、食料を補給するために訪れた船員たちを町の人々は温かくもてなしました。その後350年の時を経て平成5年にオランダ王国との文化交流が始まりました。山田湾に浮かぶ無人島が「オランダ島」と呼ばれているのは、こうした史実がもととなっています。
白い砂浜があるオランダ島は「東北唯一の無人島海水浴場」として賑わっていましたが、東日本大震災で施設や遊歩道、桟橋が被災し、海水浴は休止を余儀なくされました。その後、町民や有志団体が倒木の撤去や海岸の清掃などを行い、国の復興事業により遊歩道や避難路、桟橋の整備が完了。10年ぶりの再開となった昨年の海開きは、新型コロナウイルス感染症の流行をうけ町民に限定して行われました。今年は期間のみを限定し、海水浴場を開設しています。
現在は、島を活用した体験観光を企画しており、その中の1つが「無人島キャンプ」。昨年10月に専門家などの体験キャンプが行われ、釣りや散策などのほか、町の海産物を使ったバーベキューも行われました。
ツアー客を受け入れる本格利用に向けて着々と準備が進められています。山田湾の真ん中にあるオランダ島での「無人島キャンプ」が実現すれば、他県からの集客も狙うことができ、滞在型観光の誘客の起爆剤としても期待されているところです。
▲「無人島キャンプ」の受け入れ準備を進めるオランダ島
本町では「また来たくなる、山田町のディープな魅力が詰まった賑わいの拠点」を整備コンセプトに、新しい観光拠点施設として「(仮称)新・道の駅やまだ」の整備を進めています。三陸沿岸道路の山田インターチェンジに近く、既設の国道45号からもアクセスが容易で、観光客や通過客、地元利用客にも利便性の高い好条件の立地を生かした施設とする計画です。
地元客に喜ばれる施設であることを前提に、具体整備コンセプトには、①町の生鮮食品や特産品を味わい・購入できる「物流・物産の拠点」②町ならではの食べ方や遊び方を気軽に楽しめる「体験の拠点」③新規出店やイベントの企画を支援する「挑戦の拠点」④観光資源や体験ツーリズムを紹介する「情報発信の拠点」――の4つを掲げています。
復興後の町全体に波及効果をもたらす新たな施設として、令和4年度中の開業を目指し取り組んでいます。
▲「(仮称)新・道の駅やまだ」 外観イメージ
震災後、本町では、東日本大震災からの復旧・復興事業を中心にまちづくりを進めてきました。今年度は「山田町復興計画」が終了し、震災復興から新しい町づくりに舵を切る初年度となります。併せて令和3年度から令和7年度までの5年間を期間とする「第9次総合計画後期基本計画」がスタート。「個性豊かに ひとが輝き まちが潤う 山田町」を目標に掲げ、将来にわたり持続可能な町づくりを進めていきます。復興を遂げた町が未来を担う子どもたちへの希望とともに引き継がれるよう、地域産業の活性化と担い手確保、町内への移住促進や子育て環境の向上を図るなど、活力ある地域社会の実現を目指していきます。