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岩手県野田村/心で“つながる”のだむら

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年7月26日更新

「和佐羅比山」山頂から望む野田村

▲野田村の最高峰「和佐羅比山」山頂から望む野田村


岩手県野田村

3167号(2021年7月26日)野田村長 小田 祐士


1 野田村の概要

豊かな自然と太平洋に囲まれる野田村は、岩手県の沿岸北部に位置します。首都圏から新幹線や公共交通機関を乗り継いで“たったの”5時間程度でアクセスすることができます。夏季は海流の影響によるヤマセ(偏東風)の発生で冷涼湿潤、一方で冬季は温暖で晴れの日が多く、降雪量も少ないことが特徴で、人口は大体4、000人、面積が80㎢程度のとても小さな村です。

このようにありふれた小さな農山漁村でありながらも、特徴的な文化や風習があり、毎年1月15日の小正月には「なもみ」といわれる鬼のような面を付けた来訪神が村内の家々を練り歩き、その家の悪霊を追い払う伝統行事や、その昔、村の特産品である「のだ塩」を内陸に運んだ「のだ塩ベコの道」などが有名です。

また、野田村には断崖や岩礁の多い三陸では希少な砂浜「十府ヶ浦」があります。「十府ヶ浦」は、3・5㎞にわたってゆるやかなカーブを描いており、「小豆砂」と呼ばれる淡い紫色の小石が多く含まれているのが特徴で、製塩による村の繁栄、製塩が縮小した後も主要な観光名所として野田村を支え続けてきました。

家々を練り歩く「なもみ」

▲家々を練り歩く「なもみ」

 

2 村を襲う大津波

村を支えてきた十府ヶ浦が時に村の脅威となることもあります。「ヤマセ」による農作物被害や大津波により村は幾度も被害を受けています。記録に残る野田村の津波被害は3度で、明治、昭和、平成の大津波を経験しています。その経験は親から子へ、さらにその子どもへ受け継がれており、東日本大震災大津波で中心街が壊滅的被害を受け、流失したにもかかわらず野田村保育所の園児全員が無事に避難するなど、「津波てんでんこ」の精神で“まずは逃げること”が徹底されています。

また、東日本大震災では、村の住家のおおよそ3分の1にあたる500戸を超える住家被害、37人の人的被害を受けました。防潮堤が破壊され、村内の主要施設も多く流失するなど村の被害は甚大なものでしたが、全国からたくさんの支援をいただき、順調に復旧・復興が進んでおります。

本村の観光名所「十府ヶ浦」

▲本村の観光名所「十府ヶ浦」

 

津波被災後

▲津波被災後(平成23年3月12日津波翌日の野田村役場前)

 

 

3 復興に向けたむらづくり

野田村の特徴的な復興事業として大きく3つ紹介します。

まず1つ目は、「津波防災の刷新」です。住民の命と貴重な財産を守り、将来にわたって災害に強いむらを目指し、東日本大震災の経験と教訓を踏まえ、避難場所・避難路のネットワーク整備、防潮堤のかさ上げ、防災拠点施設の整備などを行いました。

2つ目は、「住まいの再建」です。被災者が住宅再建するための高台団地の整備や宅地かさ上げ、災害公営住宅の建設などを行いました。そのほかにも土地区画整理事業による住居系、商業系、工業系の3系統の区域と公園整備なども行いました。区域内には村民の集いの場と集合店舗機能を併せ持った施設「リメンバー・ホープビレッジ ねまーる」があります。この施設には3つの事業者が店舗を構え、集会場では毎月さまざまな催しが開催されており、多世代交流の場として活用されています。毎年4月から11月の最終土曜日に開催される「プチよ市」では村内飲食店等が施設敷地内に出店し、たくさんの賑わいを見せています。

3つ目は、「都市公園の整備・十府ヶ浦の再生」です。津波防災を目的として災害危険区域に整備した都市公園は、子どもたちの遊び場や休憩・展望の場としての機能があります。また、公園がポケット状になっており、津波の緩衝機能を備えた高盛土で津波発生時の内陸部の被害を抑える機能も併せ持ちます。この公園は小・中・高校生、大人を入れたワークショップによって公園のイメージを作り上げ、複数のゾーンから成り立っています。現在では、遊具広場には多くの親子が遊びに訪れ、公園内にあるパークゴルフコースは連日たくさんのプレーヤーが利用しており、さまざまな年代の人びとがこの公園に集まり、新たなコミュニティの場として活用されています。

「プチよ市」

▲毎年4月~11月の最終土曜日開催「プチよ市」

 

「十府ヶ浦公園」

▲震災後、災害危険区域内に整備した都市公園「十府ヶ浦公園」

 

被災前の 村市街地を再現したジオラマ

​​▲復興展示室内に設置された被災前の村市街地を再現したジオラマ

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4 大震災を後世に“つなぐ”

野田村では、東日本大震災の被害や教訓を後世に「つなぐ」ことで、再び起こる可能性がある災害に対し被害を最小限に抑えることを目的に、震災遺構・展示施設などを震災伝承施設に登録しています。「野田村復興展示室」は震災伝承施設として最上位の第3分類に登録されており、被災時から現在までの村の歩みを各種資料・映像で見ることができるほか、震災前の街並みを再現したジオラマも展示されています。その他にも震災遺構として被害の残る水門や破壊された橋りょう、応急仮設住宅などが登録されています。

これらのほかに、被災により街並みが変化した村中心街や十府ヶ浦公園に被災時と現在(被災後)の比較写真を掲載した看板を設置したほか、震災伝承アーカイブ事業として被災写真のデジタル化を進めています。

ハード面の整備による防災だけでなく、これらの伝承事業や村民による震災ガイドなど、震災を「つなぐ」ことによる防災にも取り組んでいます。

 

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5 復興支援によってできた多くの“つながり”

東日本大震災で大きな被害を受けた野田村には、全国から多くの支援者が駆け付け、支援をきっかけにたくさんの「つながり」が生まれました。

その1つである「チーム北リアス」は、八戸、弘前、関西の有志による団体で、がれき撤去などのボランティア活動をはじめ、被災した写真の返却、村民との交流活動など継続的に活動しており、今年2月には「新しい東北」復興・創生顕彰(復興庁)を受賞するなど、現在も活発な支援・交流活動が続けられています。また、写真返却の活動は、映画「浅田家!」のモデルにもなりました。

支援をきっかけに生まれたつながりとして、大阪大学人間科学研究科との協定「OOS協定(大阪大学オムニサイト協定の略称)」は、震災後村内にサテライトキャンパスを設置して被災者との交流を続けていた大阪大学との相互交流の深化・発展を目的として締結しました。この協定により、さまざまな交流事業を展開しており、講座「野田学」では『10年後の野田村をほかの村では真似できないユニークな村』にすることを目的に、さまざまなテーマで講義・実習・演習を実施しています。また、他のOOS協定先との事業連携も模索しており、今後大阪大学のほかさまざまな団体・企業の専門的技能がむらづくりに活かされます。

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6 “つながり”を活かしたむらづくり

「チーム北リアス」や「OOS協定」のように震災支援をきっかけにできたつながりのほかにも、特徴的なつながりがあります。準村民制度「心はいつものだ村民」は、村に住んでいなくても、村を応援し、心でつながる方々を準村民として登録する制度で、登録者1、000人を超えるまでにいたっています。登録者には、村内外の提携店での「ちょっとしたおもてなし」のほか、毎月2回のメルマガで村の情報発信などを行っています。令和2年度には、コロナ禍での感染予防支援として、登録者の方々へ村内の縫製工場で製造した布マスクと、収束後に村PRをしていただくために特産品の「のだ塩」をセットでお送りしました。登録者の方々からの反響も大きく、たくさんのお礼のお手紙やメールをいただきました。今年度実施している「のだ季節ギフト」では、登録者の方々を対象に村の四季に合わせた歴史や文化をパンフレットで紹介しており、紹介した内容に関連した商品のギフト販売を展開しています。コロナ禍で村を訪れることができない中、村特産品の購入と合わせて村への愛着を深め、思いを馳せていただく機会として好評をいただいております。

今後は、情報発信や特産品のやり取りだけではなく、登録者同士の交流や村づくり事業への参加、事業アイディア募集など、準村民ならではの、外部の視点を取り入れたむらづくりが期待されています。

 

 

7 心で“つながる”のだむら

人口減少が加速し、地方創生によるまちづくりが求められている中、関係人口・交流人口が重要と言われています。野田村も多くの地方自治体と同様、関係人口・交流人口の創出を目指し取り組んでおり、東日本大震災をきっかけにできたたくさんの“つながり”を深化・発展させようとしています。

また、“つながる”だけが野田村の目指す姿ではなく、“つながり”を活用した相互交流・発展によるむらづくりこそが重要であり、今後目指す姿と考えています。これまでのむらづくりは村に暮らす内部の人材が中心となって行われてきましたが、村の中にいては見えない、見せない村の魅力が非常に多いと感じます。この魅力を強化・発信するために、外部の人からの意見や提案を取り入れ、また、発信していただき、“つながっている”ことを感じられる村、「心でつながる野田村」の実現を目指して参ります。

(のだ塩工房)

▲昔ながらの薪窯直煮製法で作られるのだ塩(のだ塩工房)