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埼玉県小川町/和紙のふるさと 小川町~小川和紙の歴史と伝統を継ぐ~

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年12月17日

町の中央を流れる槻川

町の中央を流れる槻川


埼玉県小川町

3064号(2018年12月17日)   小川町 にぎわい創出課


 

「武蔵の小京都」 小川町

埼玉県比企郡小川町は、県の北西部に位置し、周囲を豊かな自然と外秩父の山々に囲まれ、市街地の中央には槻川が流れています。盆地を形成していることに加え、和紙・建具・酒造・絹などの伝統産業で古くからの歴史・文化を備えていることから、「武蔵の小京都」と呼ばれています。

都心から60km圏に位置し、東武東上線、JR八高線の電車による「小川町駅」、関越自動車道の「嵐山小川IC」などがあり、東京まで1時間程度で移動することができます。このため、通勤通学の便の良さはもちろん、ハイキングなどの日帰り旅行の観光客も多く訪れています。

人口は平成9年には最大38,000人まで増加したものの、その後減少に転じ、平成30年3月末には30,474人まで減少してしまいました。人口減少問題は、小川町にとっても重要な課題となっており、人口の誘導・定住促進のため、小川町まち・ひと・しごと創生総合戦略に取り組んでいます。

1300年の歴史がある「小川和紙」

埼玉の郷土かるたの「お」の札で「折り鶴に 願いを込めて 小川和紙」とうたわれる通り、小川町といえば手漉き和紙といわれるほど、和紙の伝統産業が有名です。そもそも、宝亀5年(774年)の正倉院文書に「武蔵国紙四八〇帳」の紙が納められていたとあり、これが初出の記録とされています。また、承和8年(841年)の太政官府には武蔵国男衾郡(当時の小川地方)の大領であった壬生吉志福正がわが子の中男作物として紙を前納した記載があります。このことから、おそらく小川地方では8世紀にはすでに和紙を生産する体制が作られていたことが推察されます。小川和紙は1300年の歴史があると一般に言われているのは、そのためです。

その後、中世には和紙に関わる記録がほとんどなくなり、当時の様子を知ることはできませんが、近世の江戸時代になると、江戸が経済の中心地として飛躍していく中、少しずつ古文書が見つかっていきます。特にこの地方の和紙は「山物」(江戸から見て山のある西の方という意味か?)などという表現で記載されていることから、当時の和紙産業の様子がわかってくるようになりました。

ユネスコ無形文化遺産登録

平成26年(2014年)11月27日の午前3時、小川町と隣接する東秩父村と共に伝承されている「細川紙」の技術が、「和紙・日本の手漉き和紙技術」として、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)無形文化遺産になったという連絡がありました。国の重要無形文化財である石州半紙(島根県浜田市)と本美濃紙(岐阜県美濃市)と共に登録されたものでしたが、埼玉県においては初の出来事でした。パリで行われていた会議において決定したもので、若干の時差があり、フランスの時間では26日午後5時頃の登録と想定されます。

まさに、この瞬間に取組がスタートを切りました。

仙元山から見る市街地

仙元山から見る市街地

「細川紙」とは

細川紙とは、江戸時代に世界的な大都市「江戸」において大人気を博した和紙のことです。起源は紀州(現和歌山県)の高野山麓の細川村において漉かれた「細川奉書」と言われています。これが大阪商人を通じて江戸にほど近い小川町周辺に漉きたてを依頼され、以降「細川紙」の名称で江戸において流通したものと伝えられています。当時、小川の紙漉き職人らは様々な和紙を漉いており、この「細川紙」についても容易にその技術をもって江戸商人たちの需要に応えたものと考えられています。

昭和53年(1978年)、細川紙は国の重要無形文化財に指定されています。「団体指定」といい、その技術を保持している職人らによる細川紙技術者協会の名で指定されたものです。細川紙のその要件は、①楮だけで作られていること②伝統的な製法と製紙用具を使用して流し漉きですくこと③細川紙の風合いなどが保たれていること、となっています。

ユネスコ無形文化遺産に登録されるための申請については、国(文化庁)が団体指定の3産地(他に島根県浜田市の「石州半紙」、岐阜県美濃市の「本美濃紙」)の和紙で行ったため、個別産地ではなく全体として和紙による登録となりましたが、その内容は3産地そのものであったわけです。

細川紙

細川紙

ユネスコ3紙の連携 課題解決に向けて

ユネスコに登録された3つの和紙産地とその自治体等は互いに連携を深め、年一回のサミットや各地でのアピールイベントを開催しています。平成29年(2017年)7月1日、小川町と東秩父村の共同開催で「和紙サミット」が開催されました。その中のシンポジウムで、和紙業界の抱える問題点が3つ指摘されました。

① 後継者不足

② 楮などの原材料不足

③ 道具不足

かねてより言われていた問題点が、このサミットを主催する無形文化遺産登録手漉和紙連携推進実行委員会により明確になりました。国の重要無形文化財に指定された当時から、本来は問題解決のための動きを進めていかなければならなかったものが、ユネスコ無形文化遺産に登録されたことで、さらに顕在化したものと捉えています。

ユネスコ登録三紙によるイベント(福岡・博多にて)

ユネスコ登録三紙によるイベント(福岡・博多にて)

課題の中で、小川町は、まずは後継者育成を急がなければならない、と取組を始めました。期間を3年として平成28年(2016年)10月から6名の研修生が手漉き技術の習得に励んでいます。「まずは腕(技術)をつけよ」という職人の声を受けて研修を行い、修了した後には和紙職人として小川町で生業に励んでいってもらうこととなります。

次に楮の安定供給については、すでに行っていた楮畑での地楮生産を続けながら、新たな楮畑の拡大を進めてきています。さらに、収穫してから原料にするまでの大変な手間のかかる作業を行っていくことで、地楮の利用促進も図っています。これは必ずしも高知県や栃木県での楮生産を脅かすのではなく、全国的に生産者を保護しながら地楮の存在意義を高めていくことを目的としています。

地楮刈取り風景

地楮刈取り風景

3点目の道具不足についてです。かつて簾編み職人が小川町にもいましたが、後継者がいないまま廃業してしまいました。現在は、高知県・静岡県の職人に依頼していますが、その職人も全国から注文を受けており、順番待ちで数年かかってしまう状況です。特殊な技術を有する職業だけに、全国的な視野で解決方法を模索していく必要があります。

紙漉き風景

紙漉き風景

思えば先見の明 「小川町七夕まつり」

全てがユネスコ無形文化遺産に登録された時から始まったわけではありません。すでに昭和24年(1949年)、和紙の普及宣伝に危機感を持った小川町の先人達は、和紙をふんだんに使用する祭りを、戦後間もないこの頃に始めました。それが「小川町七夕まつり」です。

当時、機械紙や洋紙に押され、和紙業界は困窮を極めていました。これをいち早く見極めた名誉町民になっている小久保太郎氏らは、仙台の七夕まつりを参考にこの祭りを開催しました。その後の昭和46年(1971年)、同じ夏に町内で行われていた祇園祭を合体させ、さらに大きな祭りに発展させました。その結果、全国的には珍しい「静かな」七夕から「賑やかな」七夕へと変貌を遂げたのです。

祭りの中のイベントも徐々に発展してきました。当初から行われていた竹飾りコンクールや花火大会に加え、昭和27年(1952年)には町民が参加できる七夕踊りなども行われ、盛大さを増していきました。平成19年(2007年)には商工会青年部主導の公募によりマスコットキャラクターである「星夢ちゃん」なども登場し、今年で第70回を迎えました。

観光レベルの取組が産業としての小川和紙を支え、文化財の細川紙の技術をつないできました。各種のイベントは多くの人たちに和紙のすばらしさを伝え、地域の方々の誇りを醸成してきました。ユネスコ無形文化遺産登録だけがきっかけではなく、一種の危機感をもって事業展開を積極的に進めてきました。観光と文化の両輪を備えた自動車ならそのエンジンは産業となります。進む先には何があるのか。和紙による小川町の発展を見るために。

七夕まつり

七夕まつり