町内で最も大きく神秘的な秩父池
奈良県上牧町
3059号(2018年10月29日) 上牧町長 今中 冨夫
上牧町は、奈良県の北西部に位置し、面積は6・14㎢で、東西2・1km、南北3・6kmのほぼ長方形をした町です。北は王寺町、北東は河合町、南は広陵町、そして西は葛下川を挟んで香芝市に隣接しています。大阪中心部から電車とバスを乗り継げば60分以内でアクセスできる、県外への通勤・通学にも便利な立地です。昭和40年代後半には、西大和ニュータウンの開発により、人口が急増し、人口増加率日本一になったこともあります。現在の人口は22、587人(平成30年6月末現在)。のどかな田園風景がありながら、生活に欠かせない商業施設や教育機関などが集まる、生活に馴染みやすい町です。
「上牧」の地名の起こりは、この地一帯がゆるやかな丘陵に抱かれ、放牧に適しており、上の牧、下の牧があったところからと推測されます。そのことは「日本書紀」や「続日本紀」によってもうかがわれます。
この地は当時の宮廷人たちの逍遥の地で、しばしばその歩みを止めたというほどです。なかでも南上牧東南丘から井戸ヶ尻に至る眺めは素晴らしく、この辺り一帯の丘はすべて古墳であるといわれています。元亀・天正の戦乱の時代になると、片岡国春氏が下牧に城山を構え治めていましたが、天正5年10月、子孫の弥太郎春之の時に、河内国の松永久秀の軍勢により片岡城を追われます。その後、織田信長に反旗を翻した松永久秀の片岡城を攻めるために、明智光秀や筒井順慶らが戦国絵巻を繰り広げるなど、この町は歴史ロマンを感じさせられる地でもあります。
■片岡城跡
【位置と概要】
片岡城跡は、町北西部の下牧地区に所在し、西方の眼下に葛下川と、南北に延びる交通路が開けた、片岡谷を望む丘陵上に位置しています。この片岡谷一帯は中世の興福寺一乗院の所領となっており、一乗院方の国民片岡氏が下牧地区の東を流れる滝川一帯の牧山上下庄とともに本拠とした地域になります。片岡城は、片岡国春が室町時代から戦国時代の初め頃に東西に領地を臨む山上に築上した居城となります。
【片岡氏と片岡城】
片岡氏は、大和の内乱の頃では永享元年(1429年)以降に筒井党に属していましたが、文明14年(1482年)には越智党の陣営に移りました。明応7年(1498年)に河内・大和の連合軍を率いた畠山尚順に片岡谷を攻められ、当主である片岡利持が自害しています。その後、片岡国春は再興して当主となり片岡城を築きました。松永久秀が河内から大和を攻めた際には片岡国春が筒井順慶方に就いて戦いましたが、永禄12年(1569年)、片岡春利が当主の頃に片岡城は落城し、松永久秀の手に落ちました。
天正5年(1577年)には、明智光秀ら織田軍により落城し、松永久秀配下の海老名氏が討死しました。
【片岡城跡の施設と現在の姿】
このように、片岡城は片岡国春が築城・居城してから織田信長の軍勢によって落城するまでの間に機能した城郭があり、築造時から松永氏の支配下に置かれる頃までに増築、改変されたと考えられています。
片岡城は葛下川を望む丘陵の先端近くの標高約90mの高所に築かれています。城跡には主郭を中心に大小の曲輪や帯曲輪が放射状に取り囲むように配置されており、小規模な施設配置は片岡氏築城の頃と考えられ、主郭より東側の南北方向の空堀や複雑な構造を示す曲輪の辺りは松永氏の時代に築城されたものと思われます。現在、片岡城跡は雑木林と竹林が占める山野と畑地となっており、堀などの施設に伴う地形の痕跡から往時の姿を垣間見ることができます。
往時の姿が垣間見える片岡城跡
■上牧久渡古墳群(国史跡指定)
【位置と概要】
上牧久渡古墳群は、上牧町大字上牧字久渡に所在する史跡で、平成23年度の宅地開発に伴う発掘調査により、画文帯環状乳神獣鏡や鉄製武器を副葬した墳丘墓(3号墳)が見つかっています。
【特徴】
平成26年度までの確認調査により不整形な前方後円墳(1号墳)、横穴式石室と背面側に大規模な周溝を巡らす終末期古墳(2号墳)、木棺を直葬した埋葬施設をもつ後期古墳(4・5号墳)など、古墳出現期(3世紀後半)から飛鳥時代(7世紀中頃)までの7基の古墳が丘陵上に築かれていたことが確認されました。
【上牧町初の国史跡指定】
上牧久渡古墳群では、上牧町を含む葛城北部地域がどのように歴史上の舞台に登場し発展を遂げたかを知るうえで重要な手がかりが多く残されていました。その歴史遺産としての義務付けから平成27年10月7日に上牧町では初めて国史跡に指定されました。
国史跡指定の上牧久渡古墳群
■画文帯環状乳神獣鏡
【銅鏡の発見】
古墳群の最北端に所在する3号墳の埋葬施設から、鏃や槍などの鉄製武器や土器とともに銅鏡が見つかりました。文様や作りは精巧なもので、遠く中国からもたらされたものと考えられます。
【銅鏡と3号墳のもつ意義】
銅鏡が納められた3号墳は、奈良盆地中西部では最古級の古墳(墳丘墓)です。銅鏡と3号墳は、いずれも古墳出現期の葛城北部の地域特性と奈良盆地の社会構造を知るうえで重要な手がかりとなるものです。
直径14cmの円形で、中国の神話に基づく神や仙人が浮き彫りされ、
48文字が円弧上に配置されている
町では平成17年(2005年)の24、955人をピークに出生率の低下や若年層を中心とした転出超過が続いており、人口減少が深刻な問題となっています。そこで、住民が安心して暮らせる町を目指し、次に挙げる取組を進めています。
○町が出会いをサポート ―出会い・結婚・子育て応援事業―
町の平成24年度の合計特殊出生率は1.09%と、奈良県下で下から2番目という数値となり、さらには未婚率も増加しています。そこで、少子化・未婚化対策として、結婚希望者が結婚できる支援体制を構築するため、平成28年度から出会い・結婚・子育て応援事業の一環であるマリッジサポーターの育成を図っています。同事業では婚活イベントの開催等結婚につながる出会いの機会を増やし、時には町に登録しているマリッジサポーターが仲介役となり出会いや結婚の支援を行います。これまで開催した町主催イベントでは毎回多数のカップルが誕生しています。
町主催の婚活イベント
○子育て世代の希望を実現する官民協働プロジェクト始動
常にニーズに沿ったまちづくりが求められているなかで、子育てママの就業支援事業として町内の大型商業施設内に「ママスクエア上牧店」を昨年12月にオープンしました。同店舗ではママが子どものそばで働ける新しいワーキングスタイルを取り入れるとともに、テレワークを活用するなど、育児の都合に合わせた柔軟な働き方を実現できます。子育て世代の希望を叶えられる町として官民協働で取り組み、「未来の宝である子どもを産み、育てやすいまちづくり」を進めていきます。
ママスクエア上牧店におけるテレワークの推進
○子どもたちが学習習慣を身につける「まきっ子塾」
近年、全国的に、子どもたちの家庭環境や生活習慣の変化、そして貧困により学力低下などが問題視されています。家庭教育は子どもたちの健やかな育ちの基盤であり、すべての教育の出発点でもあります。
子どもたちが、将来において大きく羽ばたくには、自ら学習に取り組み、様々な知識を身につけ、考える力を高め、自分を磨き、自信を持って行動することが大切です。そこで、生活や学習習慣を身につけ、今後の学力、体力及び規範意識の基礎をなす時期である小学校1年生から3年生の児童を対象に、週1回町内の教職OBや幅広い世代の町民、また町外の大学生を指導員として起用し、家庭学習の支援や家庭の負担軽減を目的に放課後塾「まきっ子塾」を開催しています。
地域全体で子どもを育てていく気運を醸成することで、子どもたちの郷土への愛着や規範意識を育むとともに、指導員の技術や能力を交流する若者に継承することも期待しています。
まきっ子塾
本町では平成28年(2016年)に人口の将来展望と今後目指すべき将来の方向を示す「上牧町人口ビジョン及び上牧町まち・ひと・しごと創生総合戦略」を策定しました。子育て支援や移住転入支援などにより出生率の上昇、人口移動の均衡を図り、平成32年(2020年)の人口を22、500人に維持する将来展望人口としています。そこで、本町においては良好な住環境の整備や高齢者福祉支援、結婚・出産・子育て支援などのさまざまな施策に取り組み長期的な視野で人口ビジョンに示す将来展望人口を実現できるよう、人口減少に歯止めをかけていきます。
上牧町に生まれ育ち、暮らすなかで、目に見える生活利便性の向上だけではなく、教育の充実や、子育て世帯や高齢者に対する福祉支援、生きがいや活躍できる場の提供などで、「上牧町に住みたい、住んでいて本当によかった」と思えるようなまちづくりを目指し、そのための施策に積極的に取り組んでいきたいと考えます。