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東京都大島町/島の価値・魅力の再発見と新たな観光地づくりへの胎動~伊豆大島ジオパークと観光特派員のとりくみ~

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年6月10日更新
伊豆大島の航空写真

伊豆大島(航空写真)


東京都大島町

2843号(2013年6月10日)  大島町長 川島 理史


東京から一番近くて大きな島

伊豆・小笠原諸島(9町村・11有人島)に属する大島町は、古くから伊豆大島の名で知られてきました。1986(昭和61)年の噴火・全島民避難、火山島故に幾多の自然の営みを繰り返しながら、一方でかけがえのない豊かな環境を育んできました。かつて縄文人が島を拓いて以来、先人達は知恵と勇気をもって困難を乗り越え、悠久の歴史を刻んできたのです。

首都圏から伊豆半島に一番近い火山島であり、高速ジェット船は東京(竹芝)間を1時間45分、熱海間をたった45分で結ぶなど、本土との交通は他島に比べて大変恵まれています。

その名の通り伊豆諸島で一番大きな島でもあり、周囲約52㎞、島を一周する道路(都道)は約45㎞、ちょうどフルマラソン並みです。面積は約91k㎡、山手線内の1.5倍程の広さです。島のほぼ真ん中に約10k㎡のカルデラがあり、その中に標高758mの中央火口丘=三原山がそびえています。東側の一部に断崖地形が続きますが、それ以外の沿岸や平地に集落が点在しています。

1955(昭和30)年に、旧六ヶ村が合併し大島町が誕生、2015(平成27)年には町制施行60周年を迎えようとしています。

観光の衰退・過疎化からプラス1へ

戦前・戦後を通じ観光地として知られるようになった大島町は、高度成長と離島ブームに乗り、1973(昭和48)年にそのピークを迎えました。

この年の来島者数(来島者とは海空路の交通機関利用者、離島故に正確な数であるが島民も含まれている。実際の観光やビジネス等の客数は約7割と推測されている。)は83万人台でしたが、その後はバブル期の一定の増加を除き減少を続け、3・11東日本大震災のあった2011(平成23)年には、1950年代以来初めて20万人を切りました。

人口も減り続け、1952(昭和27)年には約13,000人を数えていましたが来島者数と同様、一時期上昇傾向にあったものの今は8,433人(平成25年1月1日現在)と、8,000人を切るのも時間の問題となり、2010(平成22)年には過疎地域に指定されるに至りました。

こうしたもとで大島町は、町政を貫く基本姿勢として“三つのとりくみ”を示し、町民に協力をよびかけました。

  1. プラス・ワン
  2. 見える化
  3. 協働

のとりくみです。

その趣旨は現実を直視した上で、まずあらゆる減少に歯止めをかけ、一人一歩と着実に成果を生む。その成果はもとより町政のあらゆる分野を見える化し、共有する。その為にお互いに汗をかき、その協働の中で夢やビジョンを語り合いましょう、というものです。

先に来島者数が20万人を下回るという厳しい現実を示しましたが、昨年は約1割アップで20万人台をすぐに回復することができました。“3つのとりくみ”の成果と単純に結びつけることはできませんが、町民をはじめ関係者が共に汗をかいた結果と捉えることができます。確かにプラス・ワンの成果が見え始めてきたのです。

そしてその中で大きな役割を果たしたのが伊豆大島ジオパークと観光特派員のとりくみでした。

つつじ満開の三原山の様子の写真

つつじ満開の三原山

島の価値・魅力の再発見―伊豆大島ジオパークのとりくみ

2009(平成21)年、大島町で開かれた「火山防災講演会」で講師が何気なく語った“ジオパーク”という言葉から、そのとりくみは始りました。“ジオパーク”という響きに長期的な低迷が続く 観光再生の起爆剤となるのではとの期待感もあり、その年の12月には日本ジオパークへの認定申請を決定。こうして官民一体となった地域活性・観光復興プロジェクト「伊豆大島ジオパーク構想準備委員会」が動き出しました。そして2010(平成22)年9月、伊豆大島ジオパークは関東地方初の日本認定を受け「準備委員会」は「推進委員会」となりました。その後の主なとりくみを紹介します。

ジオガイド講習

家族、友人知人に語れれば立派なジオパークガイドというコンセプトで募集。13回の講座に延べ490名が参加。

教育

島内小中学校6校の校外学習、高校への出前講座など、次代を担う世代にジオパークを知ってもらうためガイドを派遣。

防災

いざという時は防災の担い手というコンセプトで気象庁伊豆大島火山防災連絡事務所の合同火山調査観測にガイドが同行。

三原山・山頂ジオパーク展

10数名のガイド有志が山頂に設置した会場で解説やバーチャルジオツアーを実施。訪問者は累計3,500名を超える。

観光・環境まちづくりとジオパークフォーラム

東京都の補助事業を活用し、専門家の協力を得て開催。
第1部「ジオパークを楽しむ」「火山島伊豆大島 そのなりたち」、第2部「伊豆大島はTOKYOのジオパーク」「伊豆大島 自然の恵みと低炭素社会」

これらのとりくみを通じて有料ツアーを実施するガイドも多く生まれました。利用者は累計で1,000名を超え、その満足度も高いものとなっています。

また講習修了者の中から継続的なジオパーク学習を目的とした「伊豆大島ジオパーク研究会」が自主的に発足。今後の活動が期待されます。

ジオパークPRポスターの画像

ジオパークPRポスター

島と人、人と人とを結ぶ―伊豆大島観光特派員のとりくみ

2006(平成18)年から2カ年にわたり、「大島観光産業活性化戦略」という事業が実施されました。東京都・東京諸島観光情報推進協議会から委託を受けた活性化戦略プロデューサーが、情報の提供と計画づくりのお手伝いをするというものです。もちろんその主役は大島町であり何よりも町民でなければなりません。したがってプロデューサーの提案に応える形で観光協会を中心に 大島観光振興実行委員会が組織され、7つの部会にかつてない人員が結集しました。これを機に、旧6ヶ村で最も小さな集落=泉津に住む元気な女性たちが集う「笑う会」を中心に既に地域イベントとして 定着した「桜かぶまつり」が生まれるなど、一定の成果がありました。

しかし今やほとんどの部会が活動を止めている状況であり、早急に委員会そのものの見直しをしなければなりません。しかもそれはプロデューサーというよりも島側の責任として捉え、分析することが大切です。

一方、現在も活動している部会もあります。当初、旧6ヶ村の魅力を再発見し地区毎の活性化策を検討しようと始まった「地区別懇談会」のメンバーたちです。その趣旨には賛同しつつも「今必要なことは一人でも多くの観光客に島に来てもらうこと」と熱く語る部会長につられ議論を重ね“伊豆大島観光特派員制度”の発案に辿り着き、2011(平成23)年から事業が始まりました。

大島町には御多分にもれず「観光大使」(大島町では“御神火大使”と呼ぶ)がおり、貴重な協力をいただいていますが、観光特派員のコンセプトは観光客の誘致・増客をめざし、島外にいる出身者、関係者(過去に島で働いていたことのある方)、伊豆大島を慕うリピーターの方々に観光特派員として登録してもらい、島内外みんなの協力で幅広く人脈を広げ、その輪を国内外に広げていこうというものです。もちろん各種割引もありますが、観光特派員から紹介されたお客様を島側がいかにおもてなしできるか、ということが重要です。途中から部会名を「観光客誘致部会」と変えたこともあり、町の予算付けも少ない中で手づくりのしおりや資料の発送を続け、今や登録者は5,229名(平成25年5月20日現在)に達しています。

ガイド有志による山頂ジオパーク展の様子の写真

ガイド有志による山頂ジオパーク展

ガイド養成講座フィールド講習(地層大切断面)の様子の写真

ガイド養成講座フィールド講習(地層大切断面)

伊豆大島観光特派員募集ポスターの画像

伊豆大島観光特派員募集ポスター

新たな観光地づくりへ

伊豆大島ジオパークと観光特派員のとりくみに共通しているものは何か。それは

  1. 島の価値、魅力を町民自ら再発見し発信する
  2. そのために自ら体験し学び、そして汗をかくリーダーを育てる
  3. 最終的には関係者や観光業者に止まらず、子供からお年寄りまで誰もがどこでも自らの言葉でジオパークを語りお客様をもてなすとりくみであることです。

この間、伊豆大島ジオパークに関わる公式HPの開設、PR用DVD、スマートフォン専用アプリ、GIS(観光地理情報システム)を活用したデータミュージアムなどの新たなとりくみも始まっています。これまでにない情報発信力となることは確かで頼もしい限りです。

特に防災という視点では(島にいる以上)「観光客の皆さんも町民です」との立場からの対策が求められており、そのためにもこれらの情報発信力の活用は欠かせないものです。

そして5,000名を超える観光特派員の存在は、その実証のとりくみに大きな力となることも確かです。やはり最後は“人”だと改めて感じているところです。

大島町の新たな観光地づくりへの胎動を本物にするために引き続き力をつくすものです。

落語の夜のポスター画像

観光特派員考案により、大島にて『落語の夜』を開催