ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 町村の取組 > 岡山県美咲町/「黄福(こうふく)定食」から“黄福”なまちづくりへ  MISAKI YELLOW HAPPY PROJECT

岡山県美咲町/「黄福(こうふく)定食」から“黄福”なまちづくりへ  MISAKI YELLOW HAPPY PROJECT

印刷用ページを表示する 掲載日:2011年9月5日更新
大垪西(おおはがにし)棚田の写真

日本の棚田百選認定 大垪西(おおはがにし)棚田

岡山県美咲町の写真

岡山県美咲町

2772号(2011年9月5日)  産業観光課 川島 聖史


個性豊かで活力と魅力あるまちづくり

美咲町は、平成17年3月、平成の大合併により、中央町・旭町・柵原町が合併して誕生した町です。

岡山県のほぼ中央部に位置し、『日本の棚田百選』にも選ばれた農村景観や岡山県三大河川の吉井川、旭川が流れるなど美しい自然環境に恵まれています。基幹産業である農林業は、米を中心に、特に山間地ではニューピオーネや葉たばこ等の生産が盛んに行われ、中山間地域ならではの文化や産業を育んできました。

日本棚田百選に認定されている「大垪和西(おおはがにし)棚田」と「小山棚田」は、地区住民の手によってきれいに保全された岡山県を代表する棚田です。豊かな自然や農村風景は郷土の誇りであり、特に大垪和西棚田は、標高400mの山間地に、すり鉢状に850枚(42.2ha)の田が広がる全国的にも珍しい、スケールの大きな棚田です。四季折々に美しい表情を見せ、人々の心に安らぎを与えてくれる、まさに癒しの空間です。

町の人口は約16,500人。少子高齢化、過疎化が進む中、新町スタート以来の町の第一施策に「少子化ストップ」を掲げ、子育てしやすい環境づくりに力を注いでいます。また町のキャッチフレーズは、『世界にはばたく“元気”な町』。変革の時代に夢と希望を持ち、大胆な発想で様々な分野に向けて発展し、情報を発信していくことをイメージして掲げられました。恵まれた自然環境や地域資源を生かし、個性豊かで活力と魅力あるまちづくりを目指しています。

新町の知名度アップを模索

美咲町は、横並びの3町が対等合併して誕生した新しい町で〝既存の町名を使わない〟というのが合併協議で決められ、町名は一般公募されました。誕生する“新町”の形が花びらのように見え、“人”も“自然”も美しく咲き誇る町になるようにと願って『美咲町』と命名されました。既存の町名を使わなかったことにより、町の知名度は低く、町内外の多くの方に、新しく誕生した『美咲町』という町はわかりづらかったようです。

旧3町、そして新町がスタートしてからも行政施策の中に、「観光」の二文字が占める割合は少なく、1年を通して町内外からお客様が訪れる「観光地」もなく、もちろん、岡山県全体からみても「観光資源」が“豊かだ”という町ではありませんでした。

合併から2年経った平成19年4月、旧3町、また新町になってからも初めての試みとなる“観光”と名の付く課(産業観光課)が新設されました。観光商材不足に頭を悩ませながら、初代美咲町長を中心に、産官連携による、美咲町らしい「魅力」を関係者で模索する中、町の「観光」が少しずつ動き始めていきました。

美咲流「卵かけごはん」の写真

素材としての「卵」が美咲流「卵かけごはん」へ変身

まずは「卵」でまちおこし!!

初代美咲町長の食に対する“熱い思い”を原点に、町に“人”を呼ぶ目玉として、町内に西日本最大級の養鶏場があり、そこでは毎日多くの「ブランド卵」が産まれていることに着目。その「卵」をヒントにしたまちづくりの第1弾として、誰もが知っている、誰もが食べたことがある、どこの家庭でも簡単に食べることができる「卵かけご飯」の専門店の試行的なオープンを計画しました。

なぜ、美咲町は「卵かけご飯」だったのか!?

その理由は、あとで紹介しますが、もちろん「卵かけご飯」に関するすべての“素材”は町内産にこだわり、合併した旧3町それぞれの土地ならではの既存の“宝物”と、ちょっとしたアイデアから、美咲流の卵かけご飯は誕生したのです。

卵かけご飯の店は、町の第3セクターが管理運営し、空き施設だった「食堂かめっち。」を再利用して、平成20年1月にリニューアルオープン。オープン以来「卵かけご飯」が珍しかったのか?それとも卵かけご飯で人を呼ぼうとした「美咲町」が珍しかったのか?メディアにも数多く取り上げられ、するとたちまち予想をはるかに上回る人が来店し、知名度も低く、観光資源の少なかった町へ“人”を呼び込むきっかけとなっていきました。

たまごかけごはんののぼりの写真

立ち並ぶたまごかけごはんののぼりが、人を惹き付ける美咲町

当たり前なもので“人”が呼べるのか!?

先にも述べたように、「卵かけご飯」って、あまりにも当たり前な食べ物で、どこの家庭でも簡単に食べることができ、そして誰もが幾度と食べたことのある「家庭の味」。専門店のオープン前、またオープン後も、果たして「卵かけご飯で人が呼べるのか?」という声が、町内外のあちこちでありました。

この取り組みで美咲町が大きく掲げたのが“安心安全な地元食材”と“美咲流卵かけご飯のストーリー”。全国各地で立て続けに「食」の問題が明るみになり、消費者が不安を募らせる中、町内産の食材にこだわり、「安心安全」を掲げた卵かけご飯が一躍注目されることになったのです。

とは言え、一番はどこの家庭でも味わうことができる卵かけご飯を美咲流のストーリーにしたことが“話題”を呼んだのだと考えています。

美咲流卵かけご飯ストーリー!4つのキーワード!

美咲流卵かけご飯のストーリーは、大きく4つのキーワードから展開されています。

  1. 町内には西日本最大級の養鶏場があり、120万羽の鶏が毎日約100万個の「コクとうまみ」ある新鮮な卵を産んでいること。
  2. 日本棚田百選に選定された棚田では、先祖伝来の農地を荒らすまいと、農家の方が愛情と手間暇かけて作った棚田米があること。
  3. 地元産の醤油をベースにアレンジした3種類(ねぎ・しそ・のり)の特製の卵かけご飯専用タレを開発したこと。そして、何と言ってもストーリーの主役は……
  4. 美咲町出身で、卵かけご飯をこよなく愛し、旅先でも卵を取り寄せて食していたという記述も残る明治時代を代表するジャーナリスト岸田吟香に着目したことです。

岸田吟香は、日本の新聞界の草分け的存在として、また実業家としても活躍した人物で、卵かけご飯を全国に広めたとも伝えられています。

「麗子像」で有名な洋画家岸田劉生は、吟香の四男であり、五男の辰彌は宝塚歌劇団の演出家でわが国のステージに初デビュー、モン・パリを送り出し、ラインダンスを考案した人です。

美咲町出身のジャーナリスト岸田吟香の写真

美咲町出身のジャーナリスト岸田吟香が「卵かけご飯」を全国に広めたとも伝えられている

「黄福」なまちづくりへ!!

この取り組みは多くのマスコミにも取り上げられ、また口コミでも広まり、北は北海道から南は沖縄県まで、わずか18席の食堂ではありますが、オープン以来3年7ヵ月で、25万人(年/7万人)を超える人が、美咲町の「卵かけご飯」を食べに町を訪れています。

卵かけご飯は“黄福(こうふく)定食”と名付けられ、ご飯と卵がおかわり自由の300円。「黄福」とは、卵の黄身の“黄”と、幸福の“福”をかけ合わせた言葉で、新鮮卵の黄身のイメージから、食べるとどこか懐かしく、ふんわり幸せな気分になることができることからネーミング。そして町自慢の新鮮で安心安全な食材を美味しく、しっかり食べてもらって幸せな気分になってもらえれば、本当に嬉しいことです。もちろん、3、4杯と食べられる方もいますが、年間の卵の仕入れは調理も含め、14~15万個、平均すると一人2杯になります。

現在美咲町は、「卵かけご飯」が話題になったことをきっかけに、町内に点在する観光地や観光資源を“線”で結び、面としていくプラン“美咲 黄福物語”を展開しています。“美咲 黄福物語”は1章から3章の構成で、名前のとおり、幸せな色をイメージする「黄色」を町のシンボルカラ―とした幸福なまちづくりです。町内を“「黄福」なモノ”で繋ぎ、ストーリー展開することで“「黄福」なまち美咲町”の実現に向け、他市町村にはない魅力と活力あるまちづくりを目指していくものです。

美咲 黄福物語―こうふくものがたり―
MISAKI YELLOW HAPPY PROJECT

黄福定食の写真

卵がけ専用3種のタレを開発!
黄福定食と命名された卵かけご飯は、「食堂かめっち。」で!

第1章 “美咲流卵かけご飯”は、町の文化、歴史の詰め合わせ

“黄福物語”の第1章は、先にも紹介した新鮮卵と町自慢の棚田米を使用し、食べるとどこか懐かしく、幸せな気分になることができる、美咲流卵かけご飯での展開です。

美咲流卵かけご飯を「黄福定食」と命名、“Simple Is The Best”を合言葉に、シンプルな食材、シンプルなストーリーが“話題”を呼び、「食堂かめっち。」で黄福定食を食べた人は、3年7ヵ月で25万人を超えます。

美咲町の卵かけご飯は、町の農業・産業・偉人等、合併後間もない美咲町を一言で語れる詰め合わせ丼なのです。

「幸せの“あいのす”」概要の画像

「幸せの“あいのす”」の写真

着色料を使わない黄色い耐火レンガ(黄福のレンガ)を使用した「幸せの“あいのす”」

第2章 “黄福のレンガ”を活用した幸せなまちづくり

美咲町の柵原地域には、昭和30年代をピークに、硫化鉄鉱で東洋一の生産量を誇った柵原鉱山があります。

平成3年に閉山しましたが、現在も旧柵原鉱山の坑内から湧き出る地下水を中和処理し排水する作業が行われています。その中和処理により発生した沈殿物(廃棄物)を原料に、平成21年、県内の耐火レンガメーカーによって黄色いレンガが開発されました。セラミックを混ぜることで、沈殿物に含まれている鉄分が化学反応を起こし、黄色を発色させる着色料を使わない耐火レンガです。

そのレンガを「黄福のレンガ」と名付け、リサイクル製品として町が積極的に活用していくことで、地球に優しい幸せなまちづくりを進めています。

平成22年には、岡山県のエコ商品にも認定され、町内外の一般家庭の花壇やピザ窯として、また町内に新築中の中学校に使用されるなど、幅広く活用されています。また「食堂かめっち。」前の黄福広場の一角に、黄福のオブジェ〝幸せの「あいのす」〟がお目見え。県の補助金を受け、黄福のレンガ約5千個を使用して町が制作したオブジェで、幸せなまちづくりのシンボル拠点となってほしいと願っています。

第3章 黄福の黄色いハンカチプロジェクト

黄色と言えば、1977年に上映され、第1回日本アカデミー賞を受賞した映画「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」を思い出しませんか!?

町では、この映画をヒントに昨年から新たなプロジェクトとして、美咲町を訪れる方に幸せな気持ちになってもらおうと、町内の観光施設では、黄色いハンカチでお客様をお出迎え。毎秋開催されている「たまごまつり」では、1日限定で歩行者天国となる“黄福通り(亀甲商店街)”が、ハンカチで「黄色一色」に染まります。また町内の小・中学生1,300人が、黄色いハンカチ1枚1枚に、「甲子園に出場」、「保育士になりたい」など、将来の夢や願い、家族への感謝の気持ちを書き込み、それをボランティアの皆さんが、巨大なハンカチに縫い合わせて町内に展示するなど、「町」は着々と町民の手によって“黄福色”に染められていきます。

最近では、解体前の中学校の校舎に、在校生・卒業生らが、校舎への感謝の気持ちや、学生生活の思い出などを書き込んだ黄色いハンカチを屋上から飾るなど、その光景はまるで映画のワンシーンのようでした。

3月11日に発生した東日本大震災の復興に対しましても、このプロジェクトから「何かできないか」、「何ができるか」と考え、少しでも被災地、被災された方の「活力」や「元気」に繋がればと、「黄福の黄色いハンカチ~応援メッセージを被災地へ」と題して、町民の方や美咲町を訪れる観光客の方に黄色いハンカチを販売(義援金)し、励ましや応援メッセージを書いてもらいました。実施期間はわずか1ヵ月あまりではありましたが、多くの義援金や535枚もの“思い”が集まり、7月下旬、福島県に届けてきました。

被災地からは遠く離れた美咲町ですが「美咲 黄福物語」が今できる支援をこれからも続けていきたいと思っています。

黄色は幸せを招く色と言われています。

美咲町では、その「黄色」と「幸福」をかけ合わせた言葉…美咲町名物卵かけご飯をはじめとする『黄福』な「食」や「風景」に数多く出会え、美咲町を訪れる方に“幸せな気持ち”になってもらえるまちづくりを進めています。

地域の“宝”を利用した、新しい観光ストーリーを描きながら、これからも美咲町らしい“黄福”をキーワードにした「黄色」という“色”をテーマに新たなまちづくりを展開していきます

あなたも“黄福探しの旅”に美咲町を訪れてみませんか!!

ハンカチを持った生徒の写真

黄色いハンカチ1枚1枚に夢や願いを込めて!

535枚の黄色いハンカチの写真

義損金プロジェクトを立ち上げ、535枚の“思い”を福島へ