パークゴルフ場はふれあい、健康、世代間交流の場として活用されています。
奈良県広陵町
2757号(2011年4月18日) 広陵町長 平岡 仁
広陵町は、奈良盆地の中西部にあり、近畿圏の中核都市大阪へ直線で約30キロメートルの距離にあります。歴史と伝統に育まれ、水と緑が織りなす四季折々の自然美が色濃く残っています。
町の総面積は、16.33平方km大阪のベッドタウンとして、時の日本住宅公団の開発により昭和58年頃から真美ヶ丘ニュータウンの入居が始まり、以後、人口増が続き現在3万4千200人で、奈良県で人口が一番多い町となっています。
「人にやさしい 人がやさしい 元気な町」として、町民の皆様と共にがんばっています。
歴史的にもロマン溢れる古墳の町でもあり、竹取物語でおなじみの「かぐや姫の誕生地」でもあります。産業は、靴下の生産地として全国的にも知られています。更にオリンピックの金メダルが四個(柔道)ある町でもあります。
昨年9月18日から開催されました全国都市緑化ならフェアは、広陵町と隣の河合町にまたがる県立馬見丘陵公園をメイン会場として43万人の方が来場され、10月15日には秋篠宮同妃殿下をお迎えして、全国植樹祭が行われました。会場はもとより町内は町ぐるみで花を栽培していただき、会場周辺を重点的に花あふれる訪れに値するふるさとづくりを致しました。おもてなしに、町をあげて取り組んでいただき、来町された方に感動をして頂いたのです。
また、昨年10月に曽我川沿いにパークゴルフ場をオープンいたしました。
設計はプロフェッショナルにお願いした特色コースです。
パークゴルフは、子どもから高齢者まで気軽に楽しめるスポーツで世代間交流の場として近隣市町村から、更に県外からも好評頂いています。ホールインワンすれば、3千円寄付できるシステムを採用し、氏名を顕彰しますので「達成したい」の思いで挑戦願っているのです。
讃岐神社や馬見丘公園に隣接する竹取公園
この度の東日本大震災による地震及び津波により亡くなられました方々に哀悼の意を表し、被災された皆様に心からお見舞い申し上げ、一刻も早い復興を願っています。広陵町もいち早く人・物の支援を町民の皆様に力添えいただいています。
町では、いつ起こるかわからない災害に備え災害に強い地域を作る、災害に強い人をつくる、そして災害に強い町を造ることをスローガンに、地域づくりでは自治会単位で自主防災組織を作っていただいています。
すでに27の自治会において自主防災組織を設立していただき整備率は65.9%となっています。
組織が立ち上がれば町が防災倉庫を設置し、防災資機材は町が50万円補助金を出して整備をいただいているのです。
次に人づくりは、一人でも多くの防災士を養成しています。今年の2月には町の単独事業として防災士の養成講座を開催し、住民の方や町職員も挑戦しました。町内には現在115人の防災士がいます。
自らのそして家族、隣近所の人たちの命を守るために、資格を生かしていただくのです。そして、地域を守ってくれる、しかもボランティア精神を発揮願うのです。現在意向調査をして組織を確立し、研修を常に積み重ねたいのです。 今年度も100名の防災士を目指し、町職員も挑戦指導しています。
防災倉庫
防災士養成講座
地域の強み、弱みを知るタウンウォッチングDIG
広陵町の年間予算は120億円で、特別会計を含めると180億円規模の健全経営を維持しています。
新清掃施設(ごみRDF炭化施設)を4年前に操業し、多額の投資をしました。これを契機に行財政改革に積極的に取り組みました。「職員が少数精鋭で頑張ろう」、住民サービスを低下させてはならないことを合い言葉にスタートしました。
現在186名まで正職員を削減し、ピーク時の1/3を削減しました。県下で最も少ない職員で役所経営をしているのです。基本的には定年や中途退職者の補充をしないことで実現できました。住民サービスは、シルバー人材センターの活用、専門職員の支援スタッフ雇用、事務事業の民間委託など住民の方にも町行政に参画、知恵を出していただく、そして汗を流していただくことで、皆様といっしょに町造り、郷土愛にもつながっていくのです。
また、年々経費が高騰する電算の基幹システムの共同化を検討しました。参加した近隣の2市6町の各首長が自ら音頭を取ってITコストの削減を最大の目標に掲げ、自治体クラウド化を想定した簡素で効率的な共同アウトソーシングの構築に向けた取り組みを検討した結果、今後9年間で30%の削減が可能となりました。
広陵町では、戦後、靴下・織布・プラスチック産業が盛んとなり、全国でも有数の産地にまで成長しましたが、時代が変わり商品の良し悪しよりも値段の安さが優先され、海外で製造された安価な靴下の輸入や流通、販売ルートの変革で生産量が減少傾向にあります。地場産品振興対策の一環として「良い靴下」を作る。肌にやさしい、しかも当地で原材料の綿を栽培し、ブランド化を支援しています。
広陵町の農業は、きびしい環境です。地場産品のナス、イチゴなどブランド化を推進すると共に、後継者育成など数多くの課題に挑戦しています。
原材料の綿も町内で栽培しています。
「今は昔、竹取の翁という者ありけり」という出だしで始まる竹取物語(作者不詳)。平安時代にできた最古の物語として有名ですが、むしろ「かぐや姫」の愛称で親しまれ子どもから大人まで、この物語を知らない人はいないと言ってもいいでしょう。
実は、この物語のふるさとが、広陵町であったと言われています。
物語には「名をば讃岐の造となむいひける」とあります。つまり竹取の翁の名が「さぬき」でそれが居住地に由来します。
広陵町には千年ほど前に作られた延喜式神命帳に大和の国広瀬郡讃吉郷に「讃岐神社」の名が記されています。讃岐神社は、竹取の翁を祀ったとの伝承があります。
そのほか、かぐや姫に求婚した5人の貴公子の名が実在の人物であることや、帝が狩りを名目にかぐや姫のもとへ赴く際、翁の家が山麓であると記した文章もあり、物語の舞台が大和、それも広陵町の三吉である説が有力とされています。ひっそりとたたずむ讃岐神社。今はかぐや姫を連想するような雅やかさを感じ取ることはできませんが、細く伸びた竹林が物語を偲ばせます。
かぐや姫ゆかりの「讃岐神社」
町の西部には大和三大古墳群のひとつである馬見古墳群が築かれ、250基の古墳が築かれています。
馬見丘陵の中央部に位置する北向きの大型前方後円墳で、墳丘全長220mの規模があり、左右のくびれ部には造り出しを設け、周囲には水を湛えた周濠と外堤が巡ります。埋葬施設は後円部中央に竪穴式石室が2基、さらに前方部にも石室が造られていました。出土遺物は玉類と腕飾類、他には鏡、冠等の出土も伝えられています。史跡整備に伴う発掘調査で、前方部西側から周濠へ張り出す出島遺構が発見され、水鳥、家、蓋、盾、囲、柵等の形象埴輪が多数出土しました。周濠北東隅からは『古事記』に記された「喪船」(遺骸を載せる船)が出土しています。古墳群中最大級の規模を誇り、4世紀末~5世紀初に築かれた王墓とみられます。
馬見古墳群中最大級の規模を誇る巣山古墳
陵墓新木山古墳の西に築かれた東向きの帆立貝式古墳で、墳丘全長45mで、周囲に馬蹄形の周濠が掘られ、墳丘と周濠には葺石がよく残り、5世紀後半の築造と考えられます。遺構を盛土で保存した上に築造当初の姿に復元する工法で整備されています。円筒、朝顔形埴輪は、出土遺物に基づき製作した複製品を設置し、築造当時の積み方で石を葺いています。
帆立貝式古墳の三吉石塚古墳
丘陵奥部にある直径約50mの大型円墳で、墳丘は3段築成で造られ、2段目には全長17.1mを測る大型横穴式石室が開口しています。玄室内には奥壁に沿って横向きに家形石棺が置かれ、金環と各種の玉類、馬具は二組分出土しています。武器は銀装の太刀と400本近い鉄鏃があり、石室入り口には総数58点の須恵器がありました。6世紀末葉の古墳で舒明天皇の父にあたる押坂彦人大兄皇子の成相墓とされています。
牧野古墳の横穴式石室
「日本書紀」舒明天皇11年(639)7月の条に「詔して曰く、今年大宮及び大寺を作らむ。」12月の条「この月に、百済川の側に九重塔を建つ。」と記された九重塔の名残りとされています。塔は三間四方で、初層に廻縁を張り、2・3層には高欄を付け、本瓦葺きで彩色を施しています。鎌倉時代中期に建てられたと考えられます。
百済寺三重塔
与楽寺西観音として伝えられる十一面観音像の像内から見つかった高さ31cmの仏像で、頂上の仏面から蓮華座までマユミの一材で彫刻されています。宝冠が庇のように張り出す形は類例がなく、頭上面が三面(上段1・下段2)を1単位として正面及び左右に配列されることも特異です。像の首飾り中央の大玉3個をつける表現は奈良時代の菩薩像に多用され、後頭部を深くとる側面観から日本製とされていますが、洗練された目鼻立ちや肉感的表現は盛唐彫刻の感覚を濃厚に伝えています。
十一面観音像の像内から見つかった与楽寺十一面観音立像
皆さん一度広陵町にお越しください。ご案内致します。ありがとうございました。
私たちを取り巻く環境は、大変厳しいものがありますが、五城目町では、小規模高齢化集落における集落機能の強化、朝市を核とした中心市街地活性化事業による更なる地域経済の活性化、町民生活に密着した福祉の充実や生活基盤の整備、産業・教育の振興など、各種事業を展開し、地域の資源を活かしながら「豊かで暮らしやすい地域の形成」に向けて、当面する課題に積極的に取り組み、安心・安全に暮らせるまちづくりを進めたいと思います。