大分県九重町
2714号(2010年3月29日) 全国町村会広報部 黒田 治臣
九州最高峰の中岳を擁する九重連山の山懐。大分県九重町の標高777mの高原に、日本一の大吊橋が姿を現した。九酔渓と呼ばれる人跡未踏の谷を望む吊橋は、長さ390m、高さ173m。人が渡る吊橋としては、いずれも日本一の規模だ。
この「九重“夢”大吊橋」が完成したのは、平成18年10月。以来、日本一の大吊橋は評判が評判を呼び、県内外から多くの観光客を引きつけた。そして4年経った今も、人口1万1千のこの山あいの町に、連日多くの観光バスがやってくる。
公共事業受難の時代、九重町は、なぜこの橋を造ったのか。また橋ができるまでにはどのような歩みがあったのか。そして今、何を目指してまちづくりを行っているのか。九重町の“夢”を紹介したい。
小泉内閣のいわゆる「聖域なき構造改革」で、公共事業費が毎年削減されていた平成15年、九重町は念願であった大吊橋の建設に着工した。完成のために投じたのは、総工費20億円の巨費と自律をかけた町の命運。過疎化と少子高齢化で衰退しつつある現状を何とか打開したいと、考え抜いた末の決断だった。
地元産品をつかった九重“夢”バーガーは注文を受けてから調理する本格派
これだけ巨額の事業をおこなって、人は来るのか。しかし、その不安はすぐに吹き飛んだ。完成を前に、入場料500円で年間30万人の入場を見込んだところ、目標はオープン24日目にあっさりと達成。最初の1年間で、延べ231万人がこの橋を渡ったのである。おかげで、建設に当たって国から借りた地域再生事業債約7億円は、すでに完済。残りの過疎債も順調に償還が進んでいる。そればかりか、入場料収入で中学生以下の医療費を補助できるようになるなど、町の財政も潤うこととなった。
この機を逃さず、町では“夢”をキーワードに一連の事業を展開する。なかでも特産品はアイデアが目白押しで、「九重“夢”バーガー」「九重“夢”ポーク」をはじめ、“夢”焼酎、“夢”茶に、米粉でつくった“夢”ロールケーキなど、続々と商品開発を進めている。また、従来は「九重九湯」と称していた町内の数ある温泉を「九重“夢”温泉郷」に名称変更して宿泊客の増加に努めているほか、最近は定額給付金の地元消費を促進するために、400円で500円分の買い物ができる「九重“夢”買い物券」を発売した。
“夢”の大吊橋ができたことで、九重町は一気に活気づいてきた。
「もう50年以上前から、『あそこに橋がかけられたらすごいだろうな』と、皆で酒を飲みながら語り合っていたんですよ」
大吊橋には天空館1号店、2号店があり、九重の特産品や採れたての野菜を販売する
平成4年から町政を担っている坂本和昭町長は、“夢”の起こりをこう解説してくれた。深い谷の奥深くにあって、鳥しか見ることが叶わないと言われた「震動の滝」の絶景を、空から眺めてみたい。技術も金もなかった当時、それはまさに夢物語に過ぎなかった。
幾星霜の時を経て、その“夢”がにわかに現実味を帯びたのは、平成6年2月。滞在型・通年型の観光地づくりを目指して策定した観光振興計画に、「大吊橋の建設」が盛り込まれたのである。地元民の長年の夢と、観光の目玉をつくりたいと考えた行政の意思が合致した結果だった。
町は、役場庁舎や保健福祉センター、文化センターなど中核施設の整備と債務の返済を済ませた後、いよいよ大吊橋の建設に取りかかった。小さな町による大型プロジェクトとあって、いざ取りかかるとなると住民や議員からは心配の声も上がったが、坂本町長の熱心な説明で、大方の理解を得ることができた。もともと九重町には、500万~600万人の入込み観光客と50万人の宿泊客があった。そこへ日本一の吊橋をかければ、30万人は来るだろう。これで、元利償却と管理費の捻出は可能―町は、こう算盤をはじいたわけだ。
結果は、3年間で計画の5倍を超える500万人の来場者。また、大吊橋が大分県に及ぼす経済波及効果は356億円との試算もある(大銀経済研究所と大分大学の共同分析による)。今となっては、町内で大吊橋建設を非難する者はない。
今も多くの観光客を呼んでいる「九重“夢”大吊橋」は、一夜にして出来上がったわけではない。町内では古くから、地域をなんとか活性化させようと様々な夢を語り、それを実現させようとするエネルギーが、あちこちから湧き出していた。
橋のたもとには、墨痕鮮やかに“夢”大吊橋の文字。九重の人々の夢が叶った
九重連山へ通じる「やまなみハイウェイ」の先に広がる飯田高原。川端康成が名作『波千鳥』の中で、「ほんとうに美しい夢の国がここに浮かんだよう」と形容したこの地区で「九重森林公園株式会社」の支配人を務める髙橋裕二郎さんと、農家民宿「おわて」を経営する時松和弘さんは、長く地域の活性化に携わってきたリーダーだ。2人は今、「NPO法人 九重トキゆめプロジェクト21」の理事長と副理事長として、九重の空に特別天然記念物のトキを飛ばそうという壮大な夢に取り組んでいる。
「本当の目的は自然回復と環境保全。でもそれだけじゃ何をしていいか分からんでしょ。だからトキを飛ばそうと。トキが生きられるような環境を取り戻そうという運動なんです。」髙橋さんはそう言って豪快に笑う。いかに自然を回復させても、野生のトキを飛ばすなどもちろん容易なことではない。しかし2人は、「人は夢を語らねば目的の達成はできない」と意に介さない。これまでも、「九重氷の祭典」の開催やスキー場のオープンなど、九州では不可能と思われる”夢”を実現させてきた。くだんの大吊橋も、実は髙橋さんらが構想を練ってきたものだ。
「夢は語り続けなければ実現しないんですよ」という髙橋さんの言葉には、実績に裏打ちされた力がある。
震動の滝は「雄滝」「雌滝」の二筋からなる。写真の「雄滝」は落差83m。日本の滝百選に選定される名瀑だ
その飯田高原から北東へ、車で30分。野の矢や小学校を中心として9つの集落からなる野矢校区にも、夢を語る人物がいる。自宅で獣医師業を営む佐藤義明さん。佐藤さんは、飯田高原で髙橋さんや時松さんらとともに活動して地域づくりを学び、今度は故郷で自らそれを実践しようと奮闘している。
野矢校区では最近、「ほらふき大会」なる催しを開催した。夢を語り、それを一つひとつ実現してきた先人達の例にならい、地区の人々を前に10名程度が壇上に登ってそれぞれの夢を語る。いわば「夢発表大会」だ。子供からお年寄りまで幅広い年代から選ばれた10人が披露する夢に、その日の会場は大いに盛り上がったという。
川端康成が「夢の国」と書いた飯田高原。九重連山を遙かに望む景色はどこか大陸的だ
野矢校区は、現在約160世帯に400名程度の人々が暮らす小さな地域。過疎化・高齢化が進んでからは行事への不参加なども目立ち、地域活動に活気がなくなっていた。そこで、昨年春に、住民全員参加で「野矢校区活性化協議会」を設立。小学校の運動会や文化祭に積極的に協力しているほか、盆踊り大会や正月の門松作りなど地域の行事にも取り組んでいる。「ほらふき大会」も、もちろん活性化協議会が仕掛けたイベント。中心となって活動を引っ張る佐藤さんは、「自分たちが夢を語らなければ何も始まらない」と意気軒昂だ。
こうした動きが起こったのは、野矢小学校に統合話が持ち上がったことがきっかけだった。児童数は現在でも16名と少人数だが、統合されれば過疎化は一気に進んでしまう。佐藤さんらは、地域の存続のためには「大人たちが身をもって、地元の良さ・楽しさを子どもたちに教えることが大事」と考え、様々な催しを企画しては、子どもたちと一緒になって作り上げていく。おかげで、野矢校区には、子供からお年寄りまで世代を超えたつながりが生まれつつあるという。
「皆の力を合わせれば何でもできる。できないことは何ひとつない」と、佐藤さんも故郷の活性化に確信を持っている。
坂本町長は、前回の町長選に際して「日本一の田舎づくり」というスローガンを打ち出した。そのこころは、九重町が持っている日本有数の自然環境や野焼きなどの伝統文化、多様な農産物や日本一の地熱発電、助け合いの精神など、誇るべき資源や田舎の良さを見直し、住民同士の「つながり」を生かして、本当に自慢できる「日本一の田舎」をつくろうというものだ。
平成元年から始まった「九重氷の祭典」の開催は、一昨年までで20回を数えた
「九重“夢”大吊橋」ができてから、町には誇りが生まれてきた。さらに、今も夢を語る人が地域を引っ張り、住民のつながりで故郷の危機を乗り越えようとしている―。大目標を掲げたのは、今まで培われてきた町の気風、そして新しく生まれつつあるエネルギーに対する自信の現れとも読み取れる。
関連施策としては、これまでのところ、①町外とのネットワークづくりとしてのブロードバンド・CATVの環境整備、②地域内の「つながり」を強化するための地区協議会の設置、③住む人にやさしい町をつくるためのコミュニティバスの運行―などを実施したところである。スローガンが打ち出されて2年半の現段階では、具体化は緒についたばかりだ。
なお、これに関して、町内有識者からなる「町民が考える町づくり会議」は、平成21年3月、「日本一の田舎づくりに向けて~自給率100%の町、九重町~」と題する提言書を発表した。内容は、「日本一の田舎づくり」を進めていくための具体的な指針を述べたもの。同提言書では、食糧だけでなく、町内で使われるエネルギーや、まちづくり、経済活動に必要な人、もの、情報などすべての分野で「自給率」100%を目指して自律した田舎をつくるとし、その実現に向けて、農業、商工、観光、教育、福祉など各分野での推進方策を示している。
九重町のまちづくりは、大きな目標を得て、新しい歩みを始めたところだ。
いわば、まちづくりに取り組むに当たっての精神論という印象が強い「日本一の田舎づくり」というスローガン。これを私たちはどう解釈すればいいのか。飯田高原の時松さんがそのヒントを教えてくれた。
九州最大の「九重森林公園スキー場」は、スキースクールの講師も合わせるとピーク時で140人以上のパート雇用を生んでいる
「わしらのところでは、昔から地域のことは地域でやっていた。何でも他人に頼るのではない。それが当たり前じゃないですか。」飯田高原では、昔から「九重山は自分たち地域の座敷のようなもの」と教えられ、ゴミ拾いや野焼き、山のパトロールなどは、ボランティアで行っていた。また、学校の増築やグラウンドの拡張などの話が持ち上がると、最初から行政に頼るのではなく、まずは地域内で寄付を集めるという風があった。
しかし今、世間を広く見渡すと「うまくいかないときはすべて人のせいという世の中になってしまった」と時松さんは見る。地域づくりもすべて行政任せではダメ、とも付け加えた。築234年の古民家で農家民宿を営みながら、文字通り自給自足の暮らしを実践する身。「自分のことも地域のことも他人任せ」という風潮には危機感を抱かざるを得ないようだ。
では、九重町の新たな指針となった「日本一の田舎づくり」にはどんな意義があるのか。「昔の日本の根底にあったもの、その良さを理解し直し、自然の中で生きてきた人間本来の姿・暮らしを立ち止まって考えるための運動」というのが時松さんの解釈だ。依然として都市化が進行する世の中で、九重町がその運動のさきがけになれば、と願う。
「自分のことは自分で、地域のことは地域で」という当たり前のことを見直そう。それを九重から発信していこう。そのために、みんなで誇れる田舎をつくっていこう。「日本一の田舎づくり」には、こんな意味が込められている。
九重の人々は、「日本一の田舎づくり」という新しい夢に向かって走り始めた
地域づくりは、「ハード」を充実するだけでは完結しない。そこに地域の人々の「心」が通わなければ、本物にはならない。九重町が造った日本一の大吊橋は、地元住民の長年の夢が実を結んだ結果だった。「橋よりも、むしろそこから見える景色が日本一」という坂本町長の言葉は、大吊橋の建設にかけた九重の人々の「心」を物語っている。
この大吊橋に象徴されるように、九重町では昔から“夢”を語りながら様々な取り組みを重ね、地域への愛着と誇りをはぐくんできた。そして今、先人たちが残した土台の上に、自分たちの目指すところは「日本一の田舎」をつくることであると宣言した。小さな町が掲げた大きな目標は、都市化が進んできた日本で、田舎の価値を再発信しようという意欲的な試みだ。しかし、今の九重町にとって、それは遠い夢ではなく、すぐそこにある夢だと、坂本町長も自信を深めている。
新しい目標の実現に向けて、九重町では、地域の担い手たちが、今日もまた夜なべ談義にさまざまな夢を語り合っていることだろう。