2681号(2009年6月1日) 村長 小木曽 亮弌
地域産業を牽引する「ネバーランド(株)」
長野県の最南端に位置する根羽村(ねばむら)は、人口1,180人、443世帯、村の92%が森林という山村であります。村内には、国道153号が南北に縦貫し、3本の県道が村内を横断しています。また、村境は愛知県豊田市と岐阜県恵那市に接しており、「信州の南の玄関口」でもあります。名古屋市へは車で約90分、県内の中核都市である飯田市へは約50分の距離にあります。年間の降水量は2,500mmを越え、スギ・ヒノキの生育に適した地域であり、古くから林業が盛んであった地域でもあります。
当村の歴史を見ますと、戦国時代の荒波の中で「三河の国」から「信濃の国」へと、歴史とともに大きく揺れ動いた地域でもあります。根羽村は、1334年には三河の国足助庄(あすけのしょう)(現在の愛知県豊田市)に所属していましたが、戦国時代の1571年に武田信玄によって信濃の国に編入され、その後1875年(明治8年)に根羽村と旧月瀬村が合併し、現在の根羽村となっています。
高性能林業機械の導入でコスト削減に成功
根羽村では、古くから林業に熱心に取り組んできましたが、これは村独特の森林所有構造にあります。村では、明治時代から村有林を村内全戸に分収林・貸付林として1戸当たり5.5haを貸付し、村内ほとんど全戸が最低でも5.5haの森林を所有する「山持ち」となりました。このことにより、村民のほとんどは森林組合員を兼ねるという、根羽村独特のシステムが構築されたわけであります。
また、大正9年には村有林約1,300haを国と村との間で「官行造林契約」を締結しました。これは、土地は村が提供し、植林やその後の管理を国が行い、立木の伐採時に収益を分配するという内容でありました。この官行造林も昭和32年から伐採の時期を迎え、多いときには立木売払収入が村歳入総額の34%という時代もあり、この官行造林の立木売払収入によって村の財政は大きく潤い、多くの生活環境施設整備が進められてきました。村民においても、子供の進学や大きな出費が必要な時には、自宅の山を伐ることにより、そのほとんどを賄ってきた経過もあり、山からの収入は大きな家計の潤いともなったわけであります。
このように林業による豊かさを経験している村民は、「林業への恩恵」と「山づくりの重要性」を、身をもって体験する中で「親が植え、子が育て、孫が伐る」という、確固たる根羽村林業の哲学が生まれたわけであります。昭和35年の木材の輸入自由化に始まり、オイルショック、材木価格の低迷等により、林業を取り巻く環境は厳しい時代が続き、全国で林業離れが加速し、現在もその傾向はなかなか改善の方向に進んでいないのが現状であります。そんな中で根羽村では「この林業の低迷は一過性である」という考えから、一生懸命に山づくりを継続してきたわけであります。
根羽スギ住宅はトータル林業の結晶
私が村長になったのは平成3年であります。当時はこの地域でも温泉やスキー場開発など、観光産業への転換が盛んに行われた時期でもありました。行政経験がまったくなかった私に、村民の皆さんは「あいつなら何か変わったことをやってくれるだろう」という観光開発に対する期待があったのも事実であります。
そんな状況の中で、村長就任まもなく、私は当時の議会議員に村有林を見に行こうと誘われ現場へ連れて行かれました。この時、「根羽の村長になるには山のことをしっかり勉強しなければいかん」ということを身をもって感じました。また、当時村を訪れた方から「根羽村には宝が眠っている」と指摘され、技術指導を仰ぐ中で山菜花木やほおづき栽培など、付加価値の高い商品栽培等を手がける取り組みをはじめました。
さらに、私の村づくりの基本方針の中で村民自らが主体となって計画・実行する仕組みを作りたいと考え、一般村民有志による「村づくり支援機構」を組織しました。そこで村にある資源は何か、あれこれと考える中で「水」、「食」、「木」の3つがキーワードとなるとの意見から、この3つの部会を組織し、いろいろな研究討論を行いました。その結果、地元にある酪農家で搾乳された新鮮な生乳を使った乳製品工場、おいしい水を使った豆腐工場・そば工場、そうした新鮮素材を使って食を提供するレストラン、地場産品を販売するコーナーを併設したネバーランド株式会社(第三セクター)を発足させました。人材募集についても情報誌を活用し全国へ呼びかけ 社員の採用を行ってきました。平成8年にオープンしたネバーランド(株)も、地元消費から各地域への販売拡大等により毎年黒字経営を維持しているところであります。
このように地元素材を活かした地域産業は着実に育ってきていると感じています。
森林の里親制度で遊歩道を整備
根羽村の最大の資源は、村総面積89.95平方kmの92%を占める森林であることは言うまでもありません。従来の林業は、木を植えて、育て、伐採し、丸太で素材市場へ販売するのが一般的でありました。また戦前、戦後を通じて村内に7軒あった製材工場が時代の波の中で次々と閉鎖し、平成7年には最後の1軒も閉鎖することになりました。材木を丸太で市場に販売するシステムのままでは限界を感じていた村では、この工場を買い取るという行動に出ました。このことは、当時の議会の中でも大きな議論がなされましたが、林業を再度「業」として根羽村に復活させるには、どうしても製材工場をなくすわけにはいかなかったわけであります。
この製材工場取得が新たな根羽村林業の大きな転機となったわけであります。今までは、木を伐ったら丸太で市場へ販売するというのが当たり前でありましたが、山主に少しでも利益を還元することが林業経営の基本であると考え、その仕組みづくりにとりかかりました。「いかに効率よく伐採・搬出を行うか」、「搬出した材をいかに加工し、どのように販売していくのか」、このサイクルの確立が大きな課題でありました。何と言っても、まず木材生産コストを下げることが先決と考え、プロセッサー、タワーヤーダ等の高性能林業機械の導入による機械化と、間伐をできるだけ面的に大きく実施するために施業地の団地化を進めました。このことによって、搬出に係る経費を低く抑えることが可能となりました。また、製材品の品質が担保されることが 絶対条件であり、そのための乾燥施設の導入と乾燥技術の向上に努めました。こうしてできた製品を市場等へ出荷したわけですが、やはりここでも流通の現実に直面し、当初は思うような販売結果があげられなかったわけであります。
環境学習では大径木伐採も行う
こうした現実のジレンマの中で、地域から伝統的な在来工法の家が消え、近代的な住宅が目立っている中で、風土に根ざした家造りを進めたいとする設計事務所や工務店さんと 森林組合がタイアップする中で、品質、価格ともに安心して住宅用材として使ってもらえる「根羽スギ」、「根羽ヒノキ」が住宅用材として確立することができたわけであります。
このようにして木を植え・育て・伐採する第一次産業、そして丸太を加工する第二次産業、さらに加工した製品を販売する第三次産業が村内で完結する「トータル林業」の仕組みが根羽村の中でできあがったわけであります。山で伐採された木が、目に見える形で製品化され、安心して使える建築用材としてお施主様へお届けできる「邸宅管理方式」が可能となりました。また、平成17年からは住宅建築に際して一定の 条件を満たす場合には「根羽スギの柱」50本を無料で提供する事業を開始し、たいへん好評を得ているところでもあります。
根羽村は、長野県と愛知県境にある茶臼山(ちゃうすやま)(1,415m)を源流として愛知県の三河湾へ注ぐ、全長118km、流域面積1,830平方kmを持つ「矢作川(やはぎがわ)」の源流地であり、上流と下流の密接な連携によって林業が支えられてきたという古い歴史を持っています。愛知県安城市にある「明治用水土地改良区」は、日本のデンマークと言われた安城市外8市の農業用水を中心に、水を供給する管理組合であります。この明治用水では「水を使う者は、自ら水をつくるべきだ」との崇高な理念のもと、大正3年に水源地にある根羽村の山林427haを取得し、水源涵養のための森林づくりを始め、現在も営々として山づくりが行われています。
さらに、もうひとつ「流域はひとつ、運命共同体」を合い言葉に活動が行われている「矢作川水質保全協議会」の取り組みも大きな影響を与えました。当初は、矢作川の水質保全のための監視活動が目的であった協議会も、様々な活動経過を経て、上流と下流の交流へと結びつき、現在取り組んでいる多くの活動の拠点となったわけであります。
矢作川を通じた交流は、根羽村の森林経営に大きな効果をもたらしています。根羽村にあった官行造林地の立木売払収入は村の財政を大きく潤したわけでありますが、村では平成の時代に入り、水資源の涵養や森林崩壊等を防ぐためにも、なんとか立木を伐らないで残したいということから、国からこの立木をそのまま村で買い取る決断をしました。しかし、財政力の弱い村ではなかなか購入することが難しかったため、下流の安城市に相談したところこの趣旨を理解いただき、快くその購入費用を負担していただきました。こうして平成3年に安城市と根羽村の間で「矢作川水源の森」による、30年間の森林整備協定が締結され、毎年森林の整備や様々な交流が展開されてきています。
また、環境保全に関心のある企業との連携による森林づくりを目的として、平成16年からはアイシン精機(株)、アイシン・エィ・ダブリュ(株)、平成19年からはアイシン高丘(株)、アイシン・エーアイ(株)、アイシン化工(株)と「森林の里親制度」を結び、毎年森林づくりを目的とした支援金をいただき、村有林の間伐に充当させていただいております。村では年2回社員の皆さんや家族の皆さんを招き、川遊びや魚つかみ、間伐体験や様々な自然の中での交流を深めています。こうした企業との新たな連携も森林づくりには欠かせないものであります。また、根羽村の森林をステージとして、下流の子供達が環境学習の一環で根羽村を訪れ、水がどこからどのように来るのか、自分達の目で見て、体験する取り組みも始まっています。
森林を守り育てることにより地域に林業が「業」として復活し、森林を守ることが水源を守ることにつながるという、森林の持つ公益的機能が、上流と下流の連携によって守られていくという当村の取り組みは、未来永劫にわたって引き継がれていくものと確信しています。多くの応援団の皆さんと協働しながら、地域にある資源を活用して地域をつくる取り組みを今後も積極的に続けていきたいと考えております。